あけましておめでとうございます。
皆さん、初詣でには行かれましたか?
筆者は毎年お正月3日に、地元の産土神社に行くことにしており、今年も行って来ました。
過日お力を貸していただいた境内社の龍神様2社も忘れずに。
お正月らしい清々しい雰囲気の中で、柏手を打ち、商売繁盛・家内安全など祈るのは気持ちの良いものです。
平凡な、真っ当な、素直な気持ちが幸せなんだと思います。
(ある年代の人は、ここでハーモニカの音が聞こえてくるかも)
筆者は新年早々にどこかへ行きたいなぁの虫がうずき始めたものの、お正月気分のうちは贅沢に他力でと思ったので、締め切り直前のバスツアーにすべり込みました。
それにしても新年のツアーは、何処へ行くのかお楽しみのミステリーツアーが多いですよね。
でも、カニやらお肉やらいちごやらのお土産が付いたり、どこかの神社に初詣でだったり、新年にふさわしい豪華な昼食だったりで、それなりに魅力的ではあります。
それに、案内のフレーズや写真から大まかな見当はつきますしね。
さて新年にふさわしい、れっきとした由緒ある大神社に参拝したのは良いのですが、その後連れて行かれたのは、なんと貧乏神を祭神として祀っている怪しげなところ。
「おもしろ参拝」「ストレス解消」のうたい文句で案内があったので、筆者は例えば年末なら行きそうな「宝くじ神社」とか「カエル神社」とかの類で、干支にあやかって「馬(午)の神社」とかかなと思ってました。
新年ですよ!? まだ松の内と言って良い日にちなのに、よりによって貧乏神の神社って、なんで選んだのツアー会社さん。どこがおもしろいと思ったの⁉
ということでまぁ、個人差なんでしょうが、気にしない人はそのままで結構なので、深入りしないで下さい。
筆者もそんなにはうるさくない方…いやうるさい?…かもしれませんが、新年早々くらいは明るい方向を向いていたいものです。
貧乏神様の参拝の様子
筆者たちが訪れたのはある味噌メーカーの、味噌蔵でした。
大きな味噌樽が並ぶ区画の横にもう一つ部屋があって、一隅に傾いたような鳥居が設けてありました。
昭和の街灯のような白熱電球で、電灯の下だけは明るいけれど周辺は極端に暗い。
その中に観光バスから降りた「参拝客」がぞろぞろと列をつくっていきます。
これだけでもちょっと怖い光景。
由緒書には、焼き味噌を好む貧乏神が、味噌蔵に降臨したとあります。
それだと味噌屋さん自身が貧乏になってしまいそうなものですが、ツアー会社が大型バスでお客さんを大挙して送り込むので、「神社」も土産物店もけっこうな売り上げになっている様子。
それは良いとして。
お約束は、貧乏神に向かって頭を下げない、手を合わせない、お願いをしないこと。
味噌樽で周りを囲ってある中に、いかにも貧相な木像が立ってました。
顔をそむけたくなるどころじゃなくて、正直、抹殺したくなるほどの凶暴な思いに駆られる、実にイヤ~~な顔なんです。
これを彫った方、なかなかの腕前。
参拝の仕方をレクチャーされ、手順を守って次々に「参拝」しますが、鳥居があるせいかたまに間違ってお辞儀をしてしまう人も。
最初に豆代100円也を料金箱に入れると、「貧棒」というこん棒を渡されます。
これで貧乏神の木像ではなく、鳥居の前に立っている丸太を殴る。
こん棒を返した後、丸太を蹴る。
いよいよ貧相な木像に向かっては、節分の豆まきよろしく大豆をぶつける。
もう一方の隅に「鈿女(おかめ)神社」という張り紙がしてあって、貧乏神を祓った後におかめの面をさすって福をいただくというシステムです。
筆者は霊能者でもなんでもありませんが、いくらお多福さんの面があっても紅白の幕が張ってあっても、ここには陰の気が充満していると感じましたよ。
この参拝方法で参拝者の「ストレス解消」となるかどうか??
筆者などは後味が悪くて余計にストレスを感じ、こんな文章を書くことになった訳です。
そもそも、新年早々貧乏神神社なんてやめて欲しいし、新年でなくてもやめて欲しい。
少なくとも本当に福が欲しい人に、自分と貧乏神を同一視して、こんな悪魔祓いのような参拝をすることはおすすめできません。
味噌蔵の鈿女(おかめ)神社はお金の神社?
貧乏はお金のことじゃないと言われてましたが、味噌蔵の中の鈿女神社(を模したもの)は「金へんに田と女で(かねため)神社」と書いてあるし、なんだかなぁ。
一応本物の鈿女神社は目の前の通りの角を曲がった先に祠があるのですが。
こちらは昭和初期にこの地の商人が少し離れたところの鈿女神社から商売繁盛・厄除祈願のために分社したものだそうです。
元々の鈿女神社は、文字通り日本神話の天鈿女命を祀る明治創建の神社ですが、福利厚生=非金銭的な生活のしやすさで霊験あらたかとされて賑わった、立派な神社のようなんですよ。
そもそも鈿女神社がおかめ様と呼ばれていたらしいので、分社後の呼び方は良いとして、いつから金ためと言い出したのかは筆者には知る由もありません。それなりの事情はあるんでしょうけれどもね。
貧乏神とは
文字通り、取り憑いた人間を貧乏にしてしまう神様で、日本各地の昔話に登場するようです。
筆者的には神様というより、妖怪に近いのではと思いますが。
まあ、日本は八百万の神々を認めていますしね。
基本的には薄汚れた老人の姿で、痩せこけて顔は青ざめ、悲しそうな表情で現れるのだそう。
怠け者が大好きなんだそうですよ。
擬人化の最初は鎌倉時代の仏教説話集の中らしいですが、「貧乏神」という名になったのは室町時代だとか。
江戸時代には、有名ないくつかの小説にも出てくるようです。
Wikipediaに載っているそれらの話を読んでいると、招き入れない方法や追い払い方は、大みそかに囲炉裏に火を焚くとか、逆にもてなすとか、貧乏神自身が「こうしてくれ」と言うなど、実にのどかです。
それに、招き入れない方法として好物の焼き味噌は作らないことともされています。
(これは味噌屋さんにとっては不利なんじゃ?)
仮にも神様だからなのか、強烈な手段でやっつけようとはしていない様子。
ちょっと昨年の大河ドラマの「べらぼう」が頭をよぎるのですが、江戸時代には誰かのせいではなく貧乏神が来たせいだからと、やり過ごしたり笑い飛ばそうとしていたのかとも思えます。
何となく温かい感じで、貧乏恐るるに足りぬよ、と言っているような。
まあ江戸と地方では経済的な事情が異なったかも知れないし、あれはドラマなのでそのまま当てはめる訳にもいきませんが。
貧乏神神社の概要と私見
貧乏神神社と名のる所は全国にいくつかあるらしいです。なんとWikipediaにも載っているのがオドロキ。
元々は平成10年に個人がプライベートなものとして創建したものを、そのユニークさからか影響を受けた人たちが各地で分社やそれ以外にも模倣したものらしいです。
元々宗教法人でもなく、分社も何もないようなものですが、一応パブリシティ権の侵害を避けるような形をとったんでしょうね。
概念として共通しているのは、貧乏神を祓い福を授かるというものですが、それなら普通の神社でも良さそうなものなのにね。
そもそも始めた方の考えでは「貧乏というのはお金のことではなくて、心が貧しいのだ。弱い心を叩くのだ。」ということだったようです。
説かれるのは「災禍転福」で、一つ一つのフレーズはプラス思考で、良いと思うのですよ。
「生かされていることを感謝し思いやりの心を持ち続けます」とか、「何事もくよくよせず、プラス思考で取り組みます」とかね。
でも、殴ることで心が鍛えられるとか、弱さを追い出すとか、理屈としても既に時代錯誤ではないですか。
太平洋戦争中に使われたという精神注入棒なんかを連想してしまいました。
不祥事を起こしたスポーツ団体とかも。
まあ、顔のある像を殴る蹴るではない分、多少の抵抗感は取り除かれているとは思いますが。
江戸時代の貧乏神の扱いは穏やかでしたが、現代の扱いは皆で殴る蹴るだなんて、ちょっと禍々しいですよね。
「自分の弱い心を叩く」にしても、今の時代責め過ぎると鬱になったり情緒不安定になったりするので、要注意ではないでしょうか。
ご商売の邪魔をするようで申し訳ないですが、私見では神社と名乗るのもやめて欲しいし、鳥居を設けるのもやめて欲しい。
何より皆であの殴る蹴るは、特にやめて欲しい。
こちらの味噌屋さんのレジで貧乏神のお札(ステッカー)やお守りも売ってますが、欲しいですか?
百歩譲って「おもしろ神社」というなら、いっそ「お金神社」とか名のった方がよほどストレートで明るくて気持ちいいんですけどね。
お金は必要なものだし、商売繁盛も真っ当な願いだし、矛盾する理屈をこねくり回すよりも、受け入れられやすいと思うのですが。
殴る蹴るもやめて、「しっしっ」と追い立てるとかほうきで掃き出すとかはいかが。
貧乏神神社を名のっていた神社のいくつかは廃業・消滅となり(ほらぁ)、中には幸福神社のように改名した例もあるようですよ?
まとめ
奇をてらったおもしろ神社も悪い訳ではありませんが、明るく笑えるような神社であって欲しいです。
おふざけでも、自分と貧乏神を同一視した悪魔祓いのような参拝のし方はおすすめできません。
人は皆、幸せになりたいとか、お金が欲しいとか、平和で安心して暮らしたいという願いで生きていると思うので、それを素直に出せるのが、神社だと思うのですよ。
神社で真っ当に、素直にお願い事ができることは、幸せなんだと思います。
そのうえ日頃の感謝ができれば、もっと幸せ。
ストイックなだけだと、感謝も半減してしまうのではなかろうか。
筆者はそう思いました。


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