まるでマヤのピラミッド、神殿のような建物は、白山美濃禅定道にある、白山中居神社の本殿とその石段です。
石川県・福井県・岐阜県にまたがる霊峰白山は、富士山・立山と並び日本三霊山とされています。
その昔美濃側からは長滝白山神社から、白山中居神社を通って山頂に向かいました。
長滝白山神社と共に、白山信仰・美濃禅定道のシンボルですが、長滝白山神社の後にこちらを訪れると、あまりの様式の違いに驚きます。
郡上市和良町で見たいくつかの白山神社は、本当は長滝白山神社ではなく、こちらから勧請されたのではないかとさえ思いました。
まるで古代遺跡のような、日本ではないような、神々しい不思議な感覚になります。
長滝白山神社に行かれたら、ぜひこちらにも行かれることをおすすめします。
筆者が伺ったのは、2022年8月24日でした。
白山中居神社の由緒
「第12代景行天皇の12年、熊襲・東夷が朝廷に背いた時、皇御孫を守る為伊邪那岐・伊邪那美の2神が打波との境の橋立山へ天降りされ、遥か東南を望んで『善哉、奇しき舟岡ぞ』と、隈筥川のあたり東 長瀧川 西 短瀧川の間の森にこられ、『これ清々しき舟岡山 中居』と申し給い、此処に大宮柱太しく立て鎮まりました。」 正一位白山中居神社由緒書きより
「復昔 山中の古喜美という者あり、その名を武比古という。景行天皇の12年正月(世紀前39年ママ)伊邪那岐命が武比古に皇御孫を守る為舟岡へ天降るから、舟岡の真中 朝日 夕日がさし、山と山 瀧と瀧との間に宮を造れ と。武比古 神託により舟岡中居の地に宮殿を造り、天神を祀る。」 白山中居神社誌より
日本書紀などに出てくる吉備武比古が、夢のお告げにより国家鎮護のため、伊邪那岐大神を祀ったのが始まりとされています。
吉備武比古は日本武命が東征に向かった時の、従者の一人です。
奈良時代の遣唐使として有名な吉備真備は、どうやらその子孫の一人らしいですよ。
白山信仰として隆盛を誇った
養老元年(717年)に白山を開山した修験道の僧泰澄が、それまでの社殿を修復・拡張しました。
白山信仰は全国に普及し、藤原能信(藤原道長4男)、藤原秀衡(奥州藤原氏)、今川義元、織田信長、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康など、多くの武将に崇敬されたのです。
源義経の奥州逃亡は長滝白山神社やここ白山中居神社、福井・石川・富山・新潟など、白山信仰のネットワークを駆使した日本海ルートの逃避行支援があったと考えられています。
全国に約2,700社あると言われる白山神社のうち、この5県で半数以上を占めるんですね。
また江戸時代、この地は越前国大野郡石徹白村と言い、白山信仰の巡礼者への手助けを行なって、村人は白山中居神社の社人・社家として無税、帯刀御免の身分とされた特別な地でした。
信徒は明治中期まで、伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・近江・美濃・飛騨・信濃・越前と広く諸国に及んだそうです。
昭和33年に、越県編入して岐阜県郡上郡白鳥町石徹白となりました。(平成の大合併で現在は岐阜県郡上市です)
義経の逃避行や白山信仰については
【白山信仰・美濃馬場】衝撃でした|長滝白山神社と長瀧寺 を読んで下さい
人里と神域の中間にあるから「中居」神社
大鳥居は金属製の堂々とした両部鳥居、狛犬は獅子型でした。
金幣社というのは岐阜県神社庁独自の制度で、第二次世界大戦後にできた、社格ではないが社格のようなもの、です。
大鳥居の手前右側に数台の駐車スペースがあり、左手の道を少し下ったところにも、やや広めの駐車場があります。
道路はこの先の石徹白登山口駐車場まで舗装されています。
「石徹白の大杉」を超えると登山道となり、霊峰白山の神域に入ることになるのです。
人里と神域の中間ということで、「中居神社」の名がついた…のかな?
一般的には白山と長滝白山神社の中間にあるから、と言われています。
おすすめは大鳥居右に車を停めて、大鳥居をくぐること。
主観的に言うと、ここからすでに感動ものです。
大鳥居をくぐるとすぐに急な下りの階段があります。
この時はわかりませんでしたが、これは川に向かって降りているからでした。
神社は石徹白川と宮川(朝日添川)が合流する付近にあります。
石段を降りて木立に入る前にある、黄色の祠は道祖神社。
猿田彦大神をお祀りしてあります。
道案内をして下さるのかな。天孫降臨の瓊瓊杵尊になった気分(?)
正面の写真を忘れました(悲)。
1本1本がご神体と言ってもよさそうなほどの杉の大木です。
2ヘクタールある森は岐阜県の天然記念物になっており、木立を通り抜けると、やがて橋が見えてきます。
この布橋はこの世とあの世の境界と言われます。
すぐ上流に長龍泉(長走りの滝)、下流に短龍泉(イカダバの滝)という2つの滝があり、その間の渓流を宮川と言って、途中にある御手洗大岩には水神瀬織津媛が祀られています。
瀬織津媛は、人の禍事、穢れを瀬で浄め流すという、川の神・滝の神です。
宮川の水の本当にきれいなこと。
心が洗われた直後に見た神社の全景は、神々しいとしか言いようがありませんでした。
時刻はお昼を回っているのに、まるで早朝のような、澄んだ空気。
見事な杉の林に浮かび上がる白いお社が、キラキラ輝くように見えたのがとても印象的です。
先ほど見た水のイメージが残っているのでしょうか。
敷き詰められた白い砂利のためでしょうか。
小さな白山神社でたびたび見た石段も、ここではピラミッドのようにそびえたっています。
実に荘厳です。
狛犬がオオカミ型でないのは筆者的には物足りませんが、そこまで望むのもね。
そもそも筆者がこちらに来ようと思ったのは、山に隔てられた和良町で、オオカミ型の狛犬がある白々した小さな白山神社を見たからなのです。
山すそにポツンとある簡素な神社でしたが、とても惹かれてしまいました。
それで、本拠地の白山神社に来ようと。そして来たかいがありました。
オオカミ型狛犬といくつかの白山神社を巡った記事は
鹿倉白山神社のオオカミ型狛犬が凄い!+和良周辺の白山神社巡り を読んで下さい。
そうそう、この急角度の石段。
そして今も祭祀が行われるという、磐境。
毎年7月第3日曜の例大祭に、巫女さんの舞が奉納されるそうです。
それも一度見てみたいですね。
記紀神話成立と白山開山の時期が興味深い
日本の神道は原始的な自然崇拝から始まったと言われており、白山という山そのものが、ご神体でした。
社のない時代に神が鎮座した場として祀られたものが、上の写真の磐境です。
高皇産霊尊は勅して曰く、「私は天津神籬(神が降臨される特別な場所)と天津磐境(高い岩の台)を造り上げて皇孫のために慎み祀ろう。」日本書紀巻第2より
右上の人物と比べてもらうと大体の大きさがわかりますね。
石徹白には旧石器時代からの遺跡(島口遺跡・番屋遺跡など)がいくつかあるようで、この磐境もそれらの内の一つでしょう。
神社庁によると白山中居神社は縄文時代から磐境に国常立尊(天地ができて初めての神)を仰ぎ、祭祀が行われたことから始まります。
日本書記ができたのは720年、古事記は712年なので、縄文時代に神様の名前が今のような名だったとは考えにくいですが、神様の観念としてはあり得ます。
ところで白山中居神社の創建とされる景行天皇12年は、Wikipediaによれば日本書紀の記述を基に計算すると、西暦82年になるのだそうです。
実在した天皇かどうか不明で、もし実在したとすると、考古学的には4世紀頃とのこと。
縄文時代に大岩を祀り、4世紀頃に吉備武比古が宮を造り、養老元年(717年)頃に泰澄が修繕・拡張した、ということになるでしょうか。
神仏習合はちょうど奈良時代(710~794年)初期から始まりましたが、このあたりの年代はなかなか興味深いものがありますね。
本殿の彫刻がみごと
本殿は覆屋造りです。
雪深い地なので、本殿を守るための建物で覆ってあります。
その覆屋の形と色が、よりピラミッドっぽく見せてくれるんですね。
ご祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神。
外見は簡素に見えたのに、前に立って見上げると、最初に目に入るのは見事な装飾のある扉や梁です。
神社の本殿で、なかなかここまでの装飾にお目にかかることはないように思います。
よく見ると柱と梁の組み合わされた先にあるのは、獅子や象(?)の彫刻。
これはお寺でよく見る「木鼻(きばな)」と言うもの。
神仏習合の形ではないでしょうか。
現在ある本殿は、安政2~3年(1855~56年)にできたもので、彫刻は福井県永平寺町の後藤廉之助・諏訪の立川和四郎二代富昌・甥の昌敬といった、いずれも名工の合作です。
正面梁の上の「粟穂に鶉」は粟の粒や鶉の羽の細かいところまで彫られており、とても見事ですよ。
立川和四郎富昌は、京都御所の御門の彫刻を完成してすぐにこちらの彫刻を制作し、最後の仕事として没したと言われています。
また、奥の梁から前の柱へと湾曲した海老虹梁と呼ばれるところの龍や、左右の奥にある脇障子の獅子などは昌敬の作とのこと。
これらの豪華な彫刻は岐阜県重要文化財になっています。
荘厳な白いピラミッドの上にこんな荘厳な本殿があるとは。
相殿の神様たち
本殿左は西相殿の皇祖美社といい、ご祭神は瓊瓊杵尊大神と磐長媛大神です。
それぞれ神鳩社と美女下社から合祀されたそう。
白山頂上に向かう美濃禅定道の各所に、泰澄が拡張したのがこれらの社と思われます。
瓊瓊杵尊は天照大神の孫、天孫で、氏子の安楽と幸福の守り神。
磐長媛は妹の木花開耶姫と共に瓊瓊杵尊に嫁ぎましたが、瓊瓊杵尊は木花開耶姫だけを選びました。
でも磐長媛は寿命長生・不老長寿を司る神だったので、本当は返すべきではありませんでした。
以後子孫の寿命が今のように花の咲く間だけの(ような)、短いものになったのだそうですよ。
本殿右には東相殿として新嘗社、ご祭神は大日霊貴大神(天照大神の別称)が祀られています。
磐境の左側に大宮殿の方を向いて建つのは、須賀神社(右)と地造神社(左)の建物です。
須賀社のご祭神は素戔嗚大神で、病気平癒・災難除け・産業界額等がご神徳です。
二ノ峯、水呑社の鸕鶿葺不合神(瓊瓊杵尊の孫、神武天皇の父)が合祀されています。
この神は安産の神で、鵜の羽を屋根にして作った産室が出来上がる前に、生まれてしまったのでこんな名前になったのです。
地造社は大巳貴神(大国主命)をお祀りします。
ご神徳は産業振興・縁結び・商売繁盛、医療の神です。
中央のしめ縄の下の板戸に、小さく黒く開いている所がありますね。
そこを覗いてみたら、下のような金運招福の玉が納められていました。
「この玉は伊邪那美命の祀られていた社のもとに立っていた、境内随一のご神木が、風雨によって天命を全うした時、そのご神木の体内から、分身として生まれた玉の石であります。」という札が添えてありました。
これは触って良いのかな?
手を差し入れれば触れる位置に置いてありますが、今はコロナのご時世でもありますし、やめておきました。
大宮殿に菊理媛大神が祀られている
本殿の石段のすぐ下にあるのが大宮殿と呼ばれる建物で、案内板には(幣殿・斉殿)とあります。
幣殿は祭祀を行ない幣帛を奉る(神饌を含むことも)ところ、斉殿は神事の際に身を清めるため神官のこもる建物のことです。
拝殿とは異なる訳ですね。
こちらに祀られているのが菊理媛大神でした。
白山比咩大神と同一視されています。
あらゆるものを「くくり合わせる」仲直りの神、調和と結合・和解の神様です。
白山信仰では伊邪那岐大神・伊邪那美大神とセットで祀られることが多いのですが、こちらでは明治になってから合祀されたようです。
ちょっと珍しい形かもしれません。
参拝をすませて
筆者が惹かれたのは自然の美しさなのか、神々しさなのか、古代遺跡の趣きだからか、自分でもよくわかりません。
伊勢神宮と同等か、あるいはそれ以上の何かそんなものを感じました。
平安時代から、多くの人々が霊峰白山へ登って行ったのもわかるような気がします。
場所も成り立ちも神宮とは異なりますが、何か似た感覚です。
白山が開山される前からあった原始的な自然崇拝は、自然の山の力を体感して、信仰に結びついたものでしょうね。
現代の町なかで忘れてしまった感覚が、今でも、ここではわかりやすく体感できるのだと思います。
本当に心が洗われますよ。ぜひおすすめです。
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