加賀・越前・美濃にまたがる霊峰白山から始まった「白山信仰」。
全国には「白山神社」が2,700社ほどあるのだそうです。
その中で最も多くあるのが岐阜県だそう。
岐阜県の白山神社は525社、次いで福井県421社、石川県は意外にも5位の156社となっています。
単純に考えても岐阜・福井・石川は白山のお膝元である上に、岐阜県は他の2県より面積が広いので、当然なのかもしれませんね。
伊勢神宮の系統とはちょっと違うらしい、白山神社。
いったいどういう神社なのか。
今回は郡上市和良町の中の白山神社を巡ってみました。
地元では〇〇白山神社と、頭に地名をつけることが多いようです。
Googleでは全部「白山神社」なので、赤字で加えさせていただきました。
入間は和良町ではなく八幡町ですが、地理的に和良の方が近いので、一緒に巡りました。
ただし頭に〇〇とつかないそうなので、便宜上入間①②とさせていただきます。
鹿倉白山神社(和良町鹿倉)
突然ですが、こういった狛犬を見たことがあるでしょうか。
木製で、しかもよく見る獅子(ライオン)型狛犬ではなく、狼型と言われているものです。
あばら骨がむき出しで、表情も怖い。
この木造狛犬はかつてこの鹿倉白山神社に置かれていたものでした。
狼型狛犬は修験道の色彩が濃い
神社の創建時、修験道の色彩が濃かった時代のものです。
現在は郡上市指定重要文化財)になっており、「道の駅和良」の隣にある「和良歴史資料館」に保管されています。
最初に町なかの和良歴史資料館でこれを見て、こういう狛犬を置く神社とはどういったところかと衝撃を受け、山の中の鹿倉白山神社まで来た訳です。
撮影とブログ公開にあたり、和良振興事務所振興課長兼和良歴史資料館長さんに許可を頂きました。
ありがとうございました。
鹿倉白山神社は、町中から通称こもれびロードを北に進んだ、ちょっと山の中にあります。
民家の倉庫横の細い路地を、山の方に上がっていく感じです。
鳥居と狛犬と小さな社殿がポツンとある感じなので、拍子抜けするかもしれません。
鳥居をくぐって石段を上ると少し広い境内があり、現在の狛犬が両側に建っています。
こちらも狼型ですね、目つきが怖い。
下段の写真は、同じ狛犬を逆光側から見たものですが、まるで恐竜のようにも見えますね。
石造りの狛犬に替えられる場合、獅子型になることが多いのですが、狼型のままというのも珍しいです。
石垣と2本の杉の向こうに社殿が見えます。
後ろの社叢も郡上市天然記念物になっています。
石垣や石段が白っぽいのは意図的なのか、ほかの神社とは雰囲気がまったく異なります。
いかにも厳しい修験道の神社という感じ。
奈良時代の養老年間(717~723年)に近くの宮代白山神社から勧請されています。
その宮代白山神社は養老2年(718年)、加賀白山からの勧請とのこと。
泰澄による霊峰白山の開山は養老元年(717年)と言われています。
実際にお社が建てられたのはこれよりしばらく後ではないでしょうか。
ご祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理媛命ですが、こちらで例えば恋愛成就とかお願いして良いものかと躊躇してしまいそうです。
結論としては恋愛成就の祈願もOKですが。
いったい白山信仰とは?と興味が膨らみ、周辺の白山神社や、後日は本拠地の長滝白山神社・白山中居神社まで巡ることになったのです。
【白山信仰・美濃馬場】衝撃でした|長滝白山神社と長瀧寺 も読んで下さい
岐阜県の白山中居神社で体感できたこと|伊勢神宮とは異なるも似て もどうぞ
白山信仰・白山神社とは
白山は富士山・立山と並ぶ日本三霊山の一つです。
古来から山そのものをご神体とする、原始的な山岳信仰でしたが、8世紀に修験者泰澄により開山され修験道として体系化されて「白山信仰」となっていったのです。
当時は神仏習合の時代であり、神も仏も同じく尊いとして、八百万の神と密教の仏が融合しました。
修験道とは、厳しい修行を行なって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指すのものだそうです。
平安時代には加賀・越前・美濃に禅定道と呼ばれる山頂への登山道が設けられ、その起点となる「馬場」と呼ばれる所に神仏が習合した白山寺・平泉寺・長瀧寺の神宮寺が置かれました。
この3寺が延暦寺の末寺となったことで、天台宗や白山修験の普及と共に、各地に勧請されていったのです。
中でも美濃馬場の長瀧寺(長瀧白山神社)から勧請されたものが最も多かったと言われています。
確かに岐阜県の白山神社なら、美濃馬場からの勧請が自然ですよね。
ご祭神・ご利益は
伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理媛命をご祭神としている神社が多いです。
伊弉諾尊・伊弉冉尊は国土や山川草木、多くの神々を産み、国の基礎を築かれた神様。
菊理媛命はその我が国初の夫婦が黄泉平坂で夫婦喧嘩をされた時に仲裁をしたとされる神様で、ここから縁結びの神と言われたり、水神・龍神とも言われます。
伊弉諾尊・伊弉冉尊と共に「白山大神」と呼ばれることもあります。
白山神社としてのご利益は、国家安泰・五穀豊穣・縁結び(恋愛に限らず)・恋愛成就・子孫繁栄・家内安全・商売繁盛・病気平癒、といったところです。
明治時代になり石川県の白山比咩神社が全国の白山神社の総本社とされました。
こちらでは、伊弉諾尊・伊弉冉尊と共に白山比咩大神がご祭神とされており、白山比咩大神は菊理媛命と同一視されています。
宮代白山神社(和良町宮代)
和良の白山神社に戻りましょう。
宮代白山神社は、鹿倉白山神社よりも少し町の方に近いです。
とはいえやはり山すそにありました。参道が長いです。
最初に参道右側にあるのが下の建物です。
これは何殿でしょう。そんなに大きくありません。
拝殿なら本殿の前にあるのが普通でしょうし。
下の写真が本殿でしょうか、狛犬もあるし。
只今改修中のようです。
狛犬は獅子型でした。
名のある武家の崇敬も受けた大神社だった
宮代白山神社は戸隠神社と共に、県独自の社格である銀幣社に指定されています。
地元の和良おこし協議会によると、その昔は和良町野尻地区(蛇穴のあるあたり。戸隠神社のすぐそば)に大鳥居があり、そこから神域が広がる大神社だったことが伺えるとのこと。
蛇穴から宮代白山神社まで2kmほどあります。
和良歴史資料館には、宮代白山神社の宝物として弘安3年(1280年)の棟札という建築年月や修繕等を記録した木札や、元禄15年に三十六歌仙の肖像画を扁額にしたものが保管・展示されています。
弘安3年は、戸隠神社に大般若経を奉納した橘頼綱が、この宮代白山神社の本殿を再建した年です。
その他にも宮代白山神社には鎌倉時代・室町時代の領主たちが、写経・願文・鰐口・甲冑・仏像等を寄進し、何度も造営料を奉幣しているようです。
あの織田信長も浅井朝倉との戦いで祈願し、鰐口を寄進しているんですよ。
そんな大神社の本殿が、先程のような小さな祠であったとは思えないので、恐らくは失った社殿あるいは寺院の建物(神仏習合のため)があったのではないでしょうか。
一番奥にある建物は神楽殿と、宝物殿。
十一面観音や薬師如来の像などが、郡上市の重要文化財に指定され収蔵されています。
また、毎年9月23日に行われる例祭には大神楽が奉納され、「猩々」などのからくりが上演されるそうです。
白山神社(八幡町入間)①②
白山神社の入間①は、八幡町の美山鍾乳洞と郡上鍾乳洞の中間地点にあります。
こちらも奈良時代、養老年中に勧請され宮山という小高い丘に祀られたのを、江戸時代前期頃に現在地に移ったそうです。
鳥居がかなり古そうですが、拝殿はアルミサッシの窓や扉等で改修されていました。
人口減少のため今は神楽奉納は叶わないそうですが、氏子の皆さんの敬神の念が強く、新年や例祭日にはきちんと神事が行われているそうです。
宮司さんに伺うと〇〇白山とも言わず、ただ「白山神社」なのだそう。
この近くにもう1社、白山神社入間②もありますが、行き着けませんでした。
こちらも頭に〇〇白山神社とはつかないそうです。
江戸時代前期の延宝6年(1678年)、越前国石徹白村(現在の岐阜県郡上市白鳥町石徹白)より勧請されています。
東野白山神社(和良町三庫)
第一鳥居は石造りの明神鳥居、第二鳥居は朱塗りの両部鳥居でした。
狛犬は獅子型。
養老3~5年頃の創建です。
加賀越中の白山頂から、土地の守護神として勧請されたそうです。
和良町三庫にあり旧字名は原ですが、原白山ではなく、東野白山神社と言います。
下から見ると木立に隠れて頂上がまったく見えず。
ずうっと長い長い石段が続き、息が上がってしまって、休み休みたどり着きました。
石段には苔が付いていますが、境内はきれいに保たれています。
社殿よりも石段が修験道っぽかったです。
降り始めてしばらくしたところで集落が見えたので、パチリ。
こんなに登ったのかとちょっとびっくり。
田平白山神社(和良町三庫)
集落の幹線道路から山すそに向かう道に入ると、突き当りに鳥居と社殿がありました。
さらに薄暗い木立の奥、階段状の山道を登ったところに祠がありました。
おお、修験道っぽい。
こちらも和良町三庫の、旧字名は古駄知ですが、古駄知白山ではなく田平白山神社です。
創建年は不詳。
口伝では応仁の乱以後人心の安定と争乱後の五穀豊穣、土地鎮護の守護神として祀られたそうです。
狛犬は獅子型でした。
法師丸白山神社(和良町法師丸)
山際に朱塗りの明神鳥居がありました。
江戸時代中期の享保8年(1723年)8月に、地元の篤志家が土地の守護神として、加賀白山から勧請したそうです。
拝殿の奥の小高い位置に本殿があります。
その辺が白山神社の特徴を表わしているかもしれません。
狛犬は獅子型でした。
下洞白山神社(和良町下洞)
創建年不詳です。江戸時代中期、享和3年(1803年)に社殿が再建されています。
大正昭和になって、狛犬や鳥居・瑞垣が寄進されたようです。
鳥居の脚に「皇紀二千六百年四月」とあります。この時ですね。
初代の神武天皇が即位してから2600年であるということで、昭和15年(1940年)に国をあげて祝賀行事が行われています。
拝殿・本殿・神楽殿ともさびさびとした様子ですが、それぞれのしめ縄は新しいです。
方須白山神社(和良町方須)
創建年不詳。
室町時代後期の天文元年(1532年)、現在地より山際に鎮座していました。
その年村内を新しく開墾したところ五穀豊穣だったのを喜び、翌春早々にその下の清流の音のする地に社殿を建立して移したとのことです。
白い石造りの明神鳥居。
網の張ってある手前にすぐ、清流和良川が流れています。
拝殿のすぐ後ろ、小さく黒っぽい瓦屋根が本殿です。
まとめ
雪を頂き輝く姿に、古来から人々は白山を「白き神々の座」として崇めてきました。
霊峰白山をご神体とする原始山岳信仰から、泰澄によって修験道としての白山信仰に発展しました。
驚くほどたくさんある白山神社のうちの、ほんの少し巡っただけなので、白山神社の全体像をつかめたわけではありません。
印象的だったのは、なんといっても鹿倉白山神社のオオカミ型狛犬と白々とした石垣・石段です。
他の神社も山際にあることが多く、本殿はさらに山の中腹や頂上にあり、急な石段が続いていました。
そうでなくてもやや高い位置に作られていましたし。
全体に厳しい修験道の雰囲気が漂っています。
ほぼすべてが土地の守護神として勧請されており、土地を守り五穀豊穣を切に祈ったものだとわかります。
さびさびとしていますが、決して荒れてはいませんでした。
きっとご利益も続くことでしょう。
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