戸隠神社と言えば長野県、ですが、実は全国にいくつかあります。
そして岐阜県の郡上市和良町にも。
有名な戸隠神社にあやかったのかと思いきや、どうもそう単純な話ではなさそうなのです。
かつて「九頭の宮」と呼ばれた戸隠神社は、怒ってます。
もともとご縁はあるので、同じ名前になったのだと思いますが、どちらかと言えば不本意だったのかもしれません。
明治政府が短絡的に結び付けてしまった感がありますが、和良戸隠神社独自の、古い歴史があるのです。
記紀神話に替えられた「九頭の宮」
神社の由緒書きには真っ先に、明治7年に戸隠神社と改称される前は「九頭の宮」と呼ばれていたとあります。
九頭大明神(九頭龍・九頭龍大神とも)を祀っていたそうです。
え、じゃあ「戸隠神社」としてより、
「九頭の宮」の方が断然長いんじゃないの?
うん。
名前からして古そうだし、由緒ありそう。
創建は不明ながら、平安時代中期938年の「美濃国神名帳」に「正6位上国津明神」の名で載っているのが最古の記録です。
その後鎌倉時代に地頭橘頼綱が、元寇の国難にあたり国土安泰と戦勝祈願のために、文永8年(1271年)から建治元年(1275年)にかけて写経した「大般若経600巻」を奉納しています。
その奥書に「九頭大明神御宝前」とあることから、この時代には「九頭の宮」と呼ばれていたとわかるのです。
国津明神の「国津」を、クヅと読むのかクニツと読むのかわかりませんが、もしクヅと読むのなら国津と九頭がまるで掛詞(かけことば)のようにも思えます。
なにせ平安時代ですからね。
戸隠神社の岩座の案内板にはこうあります。
中央政治制度が天皇制におおわれ、伊勢神宮がすべての頂点に立ち、中央信仰体系はアマツ神、地方はクニツ神と称し、地方の神社は伊勢神宮と伝承を共有し、アマツ神に統合された。「美濃国神名帳(938年)」には郡上市内の七社の中で強烈にクニツ神を意識させ、特異な岩座を持つ「国津明神」として、「九頭の宮」が記されている。
戸隠神社の案内板 「戸隠神社(九頭の宮)の岩座」より
アマツ神、クニツ神の「ツ」は「の」の意味で、天の神・国の神(=地域の神)のこと。
漢字では天津神、国津神と表記されます。
歴史の長い「九頭の宮」が、明治時代の神仏分離で国家神道としての記紀神話に「整備」されたということなんでしょうね。
これらの書き方だと平安時代に地方の神と言っておきながら、明治になったら記紀神話の神社にするとは、と怒っているようにも受け取れるではありませんか。
また、由緒書きにはこうあります。
「郷中盛衰記」天保11年(1840年)には和良街道筋の大社として、その偉容と賑わいぶりが記されている。
戸隠神社由緒書より
wikiによると明治6年(1874年)一旦上沢神社に改称後、翌年戸隠神社になったとのこと。
1840年時点まで大社「九頭の宮」として賑わっていたものを、わずか30余年後に上沢神社やら、戸隠神社やらに名を替えられても、ありがたみはほぼないでしょうし。
…これもまた歴史なんですよねぇ。
長野の戸隠神社も、構成する5社のうちの九頭龍社が一番古く、ご祭神は九頭龍大神なので、そのご縁で戸隠の名をいただいたことがわかります。
で、和良戸隠神社のご祭神も手力男命になったんですね。
九頭龍伝説・九つの岩座・九頭の宮
かつてのご祭神は九頭大明神でした。
九頭大明神・九頭龍は龍神様―雲を操り雨を降らし、水を司る水神様です。
生活に欠かせない水の守護や五穀豊穣、縁結び、病気平癒、虫歯治療、等のご利益があります。
平安時代は神と仏を同じと見る神仏習合の時代なので、神様の呼び方がちょっと仏教風です。
鳥居も仏教風の両部鳥居。ひときわ目立つ朱色は仏教では魔よけの色だからです。
加賀・越前の九頭龍伝説
さて九頭龍伝説ですが、全国にはいろいろな九頭龍伝説があるんですね。
信州・加賀・越前でもそれぞれ異なる伝説があります。
和良は地理的に、信州戸隠より加賀白山や越前九頭龍川の方にかなり近いので、白山信仰の九頭龍が伝播したと考えるのが自然ではないでしょうか。
白山は富士山・立山と共に三大霊山と言われており、泰澄によって開山されました。
養老元年(717年)、白山に登って瞑想中の泰澄の前に九頭龍王が現れ、白山明神・妙理大菩薩と名乗ったので、翌年お社を建てて「白山妙理大権現」を祀ったということです。
そしてそれまで原始的だった白山信仰が、修験道として体系化されていきます。
修験道は山岳信仰に仏教が習合したもので、密教の要素も加わり、厳しい修行をして験力を授かるというものです。まあ、超能力の類ですね。
越前では、黒龍川(後の九頭竜川)が暴れ大河であったのを、雄略天皇21年(477年)治水工事をして、この時高龗大神(黒龍大神)を祀りました。
その後の寛平元年(889年)に、白山信仰の拠点である平泉寺の白山権現が衆徒の前に現れて川に尊像を浮かべると、九頭龍が現れて像を頂くようにして流れ下り、黒龍大明神(神社)の対岸に流れ着いた、ということです。
他の地域の九頭龍伝説と比べるとかなり地味ですが、だからこそ静かに浸透していくのかもしれません。
時代が下るにつれ、呼び名も仏教色が濃くなっていくのがわかります。
白山信仰と九頭の宮
和良に限りませんが、岐阜県には白山神社という名の神社が驚くほどたくさんあります。
全部表示できませんでしたが、画面左端の郡上八幡を通る国道156号線沿いにも、連なるほど。
白山信仰の勢力たるやすごいですね。
その中で戸隠神社が「〇〇白山神社」にはならず「九頭の宮」なのは、すでにそれ以前から不思議な巨石のご神体を持っていた特別な社であったからではないかと思われます。
そこに9つの岩座があるのも無関係とは思えません。
珍しい木製山犬型の狛犬
戸隠神社の現在の狛犬は、石造りのわりとよく見るタイプの獅子(ライオン)型狛犬ですが、かつての狛犬が近くの「和良歴史資料館」に展示・保管されています。※注
こんなに完全に犬型というのは珍しいですね。
ちょっと滑稽な表情とでも言いましょうか、意外にかわいい。
木製なのは、例えば飛騨一之宮の水無神社のように、直接雨に当たらないように置かれていたからではないかと思われます。
郡上市指定の重要文化財で、「神社の創建が修験道の影響を受けたことを示す民族的文化財です」と説明がついています。
ただ、同じ和良にある「鹿倉白山神社」(養老年中717~723年に加賀白山から勧請)の狼型狛犬の展示もあり、そちらはあばら骨むき出しで、表情も鬼気迫るものなんですよ。
同じ白山信仰の影響を受けているとしたら、ここまで様式が異なるのは、作られた年代の差か作者の出身地の違いかとも思うのですが、ひょっとしたら、山中の白山神社は修験者向け、里の九頭の宮は里人向けということもあるのでしょうか。
※注 展示物である狛犬の撮影・ブログ公開について、和良振興事務所振興課長兼歴史資料館長三輪様に許可を頂きました。ありがとうございました。
源流は岩座信仰―九頭の岩座と古(いにしえ)のご神体、重ね岩
社殿の右側に回り込むと社叢の中に九頭の岩座と呼ばれる巨石群があります。
白山信仰よりもっと古くは自然崇拝で、巨石・奇岩に神が宿るとされていました。
巨石にはそれぞれに名前がついています。
丈高い杉の林に囲まれて巨石が点在しているのを見ると、確かに神様が宿っておられてもおかしくない気分になってきます。
和良戸隠神社のそもそもの始まりは、この岩座信仰であったようですね。
これらの巨石が九つあったので、九頭と結び付けたのではないかと、勝手に思っています。
もしくは九つに作り上げたか。
巨石群の中でも本殿のすぐ横にある「重ね岩」はとりわけ篤く祀られています。
それは古代にはこれこそがご神体であったからです。
推定重量は上の岩が42t、下の岩が44t だそうです。
どうしてこんな角度で乗ったのか、本当に不思議。
上下の岩はわずかな接点でこのバランスを保っており、片手で押すとグラグラと揺れるのに、決して落ちないと言われています。
記録に残る天平17年(745年)以降でも、美濃・飛騨地方で推定M6.4~M8.6の大地震が多数回起きているはずです。
これらの地震でも大丈夫だったそうなのですよ。
とはいえ、揺り動かすうちには底が削れたりして、いずれバランスが崩れる懸念もありますよね。
危険なため、現在は触れることは禁止されています。
そのかわり撮影はOKで、この木と岩の間を通り抜けた所が重ね岩の正面になります。
そうすると、本殿も拝むことができるのですが、やっぱり本殿はおごそか。空気が変わります。
今いらっしゃるのは現在のご祭神である手力男命ですよね。
九頭龍大神は相殿として本殿にいらっしゃるのか、重ね岩の方でしょうか。
一応全部お参り。
そしておまけですが、天の岩戸のかけら伝説です。
宮崎県高千穂町に天の岩戸神社の岩屋があります。
そちらと長野の戸隠を結ぶ直線上に和良戸隠が位置しているということです。
手力男命が天岩戸を放り投げ、長野の戸隠に飛んで行く途中にかけらが落ちて、重ね岩の上の岩として乗ったというお話。
なんというか、よくできたお話ですよね。
この重ね岩は現在郡上市指定天然記念物になっています。
また、落ちないということで、受験時のお願いに参拝する方も。
社叢と一本杉は天然記念物。他にねじれ杉も
戸隠神社の社叢と参道の一本杉も、現在岐阜県指定天然記念物になっています。
神社は山すそにあるので、社叢は鳥居の両脇から社殿を囲み、さらにその奥へと展開して神域を作っています。
この中で特に樹齢が高く、太いものが特定されて指定木となっており、その総数は52本。
樹齢で見ると最高で900年、若いものでも150年くらいあるそうです。
鳥居が小さく見えるほど、樹高も高いですね。
そして参道の入り口の一本杉は、かつて参道の両側に一本ずつ植えられていたのが、東の一本が枯れたため一本となったと伝えられます。
神社が鎮座した頃に植えられたという説では、樹齢1,000年を超えることになるのです。
ただ鎌倉中期の建治元年(1275年)、橘頼綱が植えたという説もあります。
大般若経を奉納し終えた年なので、ありえるかも。それだと今年で747年なんですよ。
ちなみに岐阜県の文化伝承課では、他との比較や立地条件・関連分析によって、指定された平成10年の時点で樹齢約700年と推定しています。
700年でも充分すごいと思いますけれどね。
保存状態は良好で、今でも成長を続けているそうです。それもすごいです。
さて、上の鳥居の写真に写っていますが、鳥居のすぐ左奥が夫婦杉です。
さらにその左端に、ちょっと緩めのねじれ杉があるんです。
一部の人たちがゼロ磁場の産物と言っておられるものですが、どうでしょうか。
ねじれ杉はこの木の他にもう2本ありますので、探してみてください。
伊勢とのかかわり
戸隠神社と改称されたのは明治になってからですが、実は伊勢とのかかわりは、その前から始まっています。
以前から御師と呼ばれる人たちが伊勢から派遣されており、江戸時代に入ってからは特に「お伊勢参り」が盛んになりました。
それに伴うように、戸隠神社の記録では江戸時代初期の天和2年(1682年)、伊勢より御鍬様を祀るとあります。
現在、本殿の横に別社として鎮座しているのが「御鍬社」です。
御鍬様についてはあまりよくわかっていませんが、農具の「鍬」を名前に持っていることもあり、農事の守護神とされています。
そのご祭神として戸隠神社では外宮と同じ「豊受大神」としておられます。
同じように食物・穀物を司る神様なので同一視したということでしょうか。
また、戸隠神社の例祭「九頭の祭」が現在の形になったのは江戸時代末期の文化10年(1813年)。
お祭りには伊勢神楽が奉納されたり、山車のからくり人形の天鈿女命や猿田彦命が踊ります。
長い歴史があるということは
歴史をさかのぼってたどってみましたが、長い歴史を経て神々とのご縁も増え、ご利益も増えたということですよね。
ごめんね。お邪魔します。
いいよ。僕だって2代目だし。
お鍬さんも来たから、ワンチームでね。
ということで、和解もできた様子。
九頭龍大神のご利益である水と五穀豊穣・縁結び・病気平癒に虫歯治癒。
手力男命のご利益でパワーと活力・健康・所願成就を。
長い年月風雪に耐え、落雷にも合わなかった一本杉は無病息災、受験や選挙に「落ちない」。
重ね岩も「落ちない」。
岩座と夫婦杉は恋愛成就・子孫繁栄にご利益があるそうです。
御鍬様・豊受大神の食物・五穀豊穣。
今までも多くの人たちが願ってきたように、今もこれからも、これらの幸せを願っています。
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