子供の頃に、「日本にはなぜ神社とお寺があるの?」と思ったことはありませんか。
大人から返答をもらっても、よくわからなかった筆者が考えたのが、「同じご利益があるなら同じ神様を違う呼び方をしているだけでは?」「神社とお寺を一緒にすればいいのに」。
…これが具現化されていたのが、ここ長滝白山神社・白山長瀧寺でした。
岐阜県側の、美濃馬場と呼ばれるところです。
日本史で「神仏習合」を習った時には、「あらま、やっぱり同じ発想をするんだ」と思っただけですが。
けれどここに来て実物の建物を見、江戸時代の絵図などを見て、深い歴史を知った後はホントに衝撃だったのです。
かつての長滝白山神社・長瀧寺がどんなところだったのかわかると、同じ景色が数倍違って見えますよ。
ご紹介するに当たっても、この神社とこのお寺は切り離せないのです。
白山信仰と白山中宮長瀧寺とは
石川県・福井県・岐阜県にまたがる白山は日本三名山・三霊山とも言われ、雪を頂く秀麗な姿は古くから「越の白山」として歌にも詠まれました。
白山から流れ出る豊富な水は、田畑を潤し様々な動植物をはぐくみ時には荒ぶる、山そのものをご神体とした山岳信仰が始まりです。
そして奈良時代の養老元年(717年)に修験者泰澄が白山を開山しました。
泰澄が白山の主峰御前峰に登って瞑想していた時、傍らの翠ヶ池から十一面観音菩薩の垂迹(仮の姿)である九頭龍王が現れ、自らを伊弉冉の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗ったことを起源とします。
ややこしいですね。
この時代の神仏の考え方は、主として日本の八百万の神々は、様々な仏が日本の民衆を救うために、仮に神の姿で現れたというものです。
この辺は筆者の思いとは異なるんですけれどね。
泰澄は御前峰に社を置き、白山妙理大権現を祀りました。
そして素朴だった山岳信仰が修験道として体系化され、今に言う白山信仰が発展していったのです。
白山信仰は修験道でした。
加賀・越前・美濃の拠点にはそれぞれ神仏習合の神宮寺が置かれ、山頂に昇る起点になりました。
これを馬場といいます。
美濃馬場には「白山中宮長瀧寺」が建立されました。
平安末期には三馬場の神宮寺三寺とも比叡山延暦寺の別院となり、白山修験道は全国に広まりました。
白山が見える地域は13府県(旧20か国)にわたるそうです。
陸や海から白山が見え、自分の位置がわかって九死に一生を得た、ということもあったそうです。
現在日本には約2,700社の白山神社がありますが、そのうち525社が岐阜県にあります。
勧請元としてもここ、白山中宮長瀧寺が最多とのこと。
まあ、岐阜県は広いですからね。
それに次いで福井県の421社、3位が新潟県232社、4位愛知県220社、5位が石川県156社です。
明治の神仏分離令で白山中宮長瀧寺は強制分離され、長滝白山神社と白山長瀧寺になりました。
今も寺の部分が残り、同じ境内に別居しています。
美濃禅定道と美濃馬場
起点の馬場から山頂に至るまでの山道を禅定道と言います。
禅定道の起点は、修行の起点でもあります。
当時は白山中宮長瀧寺で入山の儀式を行ない、心構えをして山中に向かいました。
そもそも馬場にたどり着くまでがすでに山道ですけれどね。
筆者は車で普通に走って来ただけなので、上の写真の絵を見て、こんなに登っていたのかとびっくり。
これまで登ってきた東海北陸自動車道も国道156号線も、ここから大きくカーブしてひるがの高原に下り、白川郷の方へと遠ざかっていきます。
けれど、修行の道はさらに山頂へ向かって登って行き、これからが本当の「禅定道」なのです。
今どきは相当な山奥でも舗装されており、大したものと思うのですが、古の禅定道は今の舗装道路からは少し外れていて、前谷あたりから桧峠には苔むした古道が残っているそうです。
桧峠を越え、石徹白大師堂、白山中居神社、そして石徹白の大杉まで来ると、その先は今も登山愛好家の方々に利用されている登山道の石徹白道になります。
白山頂上と言われる、最高峰の御前峰は別山のまだずっと先。
参道入り口の両側に神社とお寺の石柱が
東海北陸自動車道白鳥ICから、国道156号線経由で北に約10分。
無人駅の白鳥長滝駅手前の踏切を渡った所がすぐ駐車場です。
参道入り口には、右に「表本宮白山神社」、左に「天台宗白山長瀧寺」とあります。
参道が同じなのでこうなりました。
奥に鳥居が見えます。
この分では、神仏習合の明神鳥居かなと思っていたら、伊勢神宮と同じ神明鳥居でした!
ここは、神仏分離したのだという現れ。
江戸時代の絵図に鳥居はなく、参道の入り口に堂々とした仏教風の楼門が描かれています。
廃仏毀釈で楼門は除かれたようで、明治27年の絵図には今の鳥居の位置に「白山神社」の石(?)柱のみ建っています。
すぐに鳥居が建ったのではなかったんですね。
鳥居はあるが周囲は現在も仏教色が濃い
平安時代は30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊あったそうです。
鎌倉時代の大火で半数を焼失し、明治の大火でさらに焼失、現在の建物は大正時代に再建されました。
現在参道と言っている道筋は江戸時代の絵図には本院谷と書かれていて、道筋のことを”谷”と呼んだようです。
本院谷の両側にも多くの僧房・宿房がありました。
今残っているのは、右に経聞坊、左に宝幢坊のみです。
両方とも今でも町なかにありそうな、木造2階建ての寮のような感じでした。
普通の寮と異なるのは、各坊にそれぞれにご本尊があったということ。
そんな中で下の建物はカラフルな牡丹や菊の絵で装飾があり、何だろうと思ったら、「真言宗 瀧泉院」とあります。
ここは天台系なのに、なぜここに真言宗? う~ん、理由は不明です。
案内板などを見ると、「坊中屋敷跡」となっています。
入峯の儀式後、行場を経由して禅定道へ
太鼓橋を渡ると聖域になり、左手に金剛童子堂と護摩壇があります。
白山を目指す人たちがここで井桁に組んだ護摩木を焚き、入峯の儀式を行ないました。
下の絵図は、白山信仰を広めた先達(行者の道案内をしたり作法を指導した山伏)が、信者を得るために配布した江戸時代のリーフレットを案内板にしたものです。
白山へ登拝する人たちは僧房に泊まり、金剛童子堂前で入峯の儀式を受けて、まずは金剛童子堂の上にある入峯堂に7日間こもって修行を行なったのだそうです。
入峯堂で心身を清め、過酷な修行への覚悟を決めると、先達に導かれて一の宿、二の宿(黄色の枠)と峰つたいに「長滝十宿」と呼ばれる行場を経由して、白山頂上に向かったと伝えられています。
現在でも登山の装備をして向かわないといけない山ですからね。
昔はどんないでたちで向かったのでしょうか。
案内板の「白山禅定道」(黄色矢印)が、長滝十宿と交わっていくようです。
金剛童子堂のすぐ横には朱塗りの鳥居が建っています。
こちらは稲荷社ではなく稲荷堂。
この呼び方は神仏習合の名残ですね。
明治時代に移されてきた様子です。
神仏分離前、堂宇と社殿はつながっていた
この石段は銀杏坂と言うそうです。
秋にはきっと、見事な黄葉が見られるのではないでしょうか。
坂の上の正面には神社の拝殿が、左手には寺院の大講堂が見えます。
広い境内の真ん中に鎌倉時代の銘がある石灯籠があります。
石灯籠の向こうの長滝白山神社拝殿と、左手にある白山長瀧寺大講堂、どちらから見ても直角の正面に建っています。
この石灯籠は、はっきり制作年代がわかることと、その装飾性で、国の重要文化財に指定されています。
石灯籠の左手正面が天台宗白山長瀧寺の大講堂です。
長滝の僧侶たちが集まり、法会を開いたり仏教経典を学んだと伝わります。
明治の大火で焼失後、規模を縮小して再建されたとのことで、写真ではあまり大きく見えませんが、これでも左右の石灯籠も結構大きいのですよ。
焼失する前の大講堂は、間口33m・奥行き24mとかなり巨大であり、高さ6.3mあったという大日如来像や釈迦如来像・阿弥陀如来像を収容し祀っていました。
その昔の大講堂は神社の神楽殿・拝殿とつながっており、大講堂で如来像を拝んだ後は神社拝殿から見える本殿に向かって登拝の無事を祈ったのだそうです。
今は神社拝殿の周りに何もないので、回り込んで直接本殿に向かうことができますが、江戸時代の絵図では本殿が直接拝めないように、仕切られていたふうにも見えます。
拝殿とは元々そのためのものですしね。
拝殿奥の格子の向こうに、かすかに本殿が透けて見えています。
先に書いたように、かつて長瀧寺の大講堂から続く渡り廊下を通り、ここからしか礼拝できなかったのではないかと思われます。
確かに、しっかり見えない方が神秘的ですよね。
源義経の逃避行と美濃禅定道、奥州藤原氏とのネットワーク
かつては銀杏坂を上がった右手に、奥州平泉の藤原秀衡が寄進した梵鐘があったそうです。
源義経とかかわりの深い、有名な奥州藤原氏です。
平泉中尊寺の境内には白山神社が勧請されていて、藤原秀衡も霊峰白山を厚く崇敬していたそうです。
あの藤原秀衡が、と驚きました。
鎌倉時代の正史「吾妻鏡」には、京を追われた義経一行が山伏(修験者)に変装して奈良吉野から伊賀・伊勢・美濃を経由して奥州へ行ったとの記述があります。
勧進帳で有名な安宅の関は現在の石川県小松市で、加賀馬場の白山寺(現白山比咩神社)のすぐそばですし、越前馬場の平泉寺にも義経・弁慶が立ち寄ったという伝説が残っています。
日本海側を通って奥州に向かったルートが、近くにある「白山文化博物館」で紹介されています。
当時この3寺を別院とする比叡山延暦寺の僧兵の協力など、白山信仰のネットワークを使った逃避行支援があったものと考えられているのです。
このご縁により、平泉中尊寺で800年前の種子から開花した古代ハスが、平成16年に大講堂前の蓮池に株分けされました。
織田信長・徳川家康と白山権現
信長は白山中宮長瀧寺と白山中居神社にそれぞれ軍配と膳椀、鰐口を寄進しています。
ルイス・フロイスの「日本史」では、自らの言葉に偽りのないことを「白山権現の名において」と誓ったと伝わります。
家康も、武士間の契約に使う起請文に長瀧寺発行の牛王宝印(厄除けの護符)を多く使っているそうです。
二人とも中部地区出身の武将ですから、奥州藤原氏ほどのインパクトはないものの、崇敬の深さがわかりますね。
その他仏教エリア
大講堂の左隣にあるのは下が弁財天、石段の上は薬師堂(経蔵)です。
江戸時代の絵図では薬師堂として描かれ、明治27年の絵図では経蔵となっています。
明治の大火で焼失した後に、薬師如来を祀る薬師堂として再建されました。
その奥がちょうど金剛童子堂の背後、入峯堂跡になります。
この道から修行に向かったと思われます。
神社エリア
長滝白山神社の狛犬はかつて木製だった
長滝白山神社の狛犬は、現在石造りの獅子(ライオン)型の狛犬です。
かつては木造で、直接雨に当たらないよう、本殿の扉前に置かれていました。
鎌倉時代の木造狛犬が白山文化博物館に、南北朝時代の木造狛犬が境内の白山瀧宝殿に保管・展示されています。
鎌倉時代のものは阿形が獅子型、吽形が角のある狛犬で、南北朝時代のものは阿形がカラス天狗のような顔、吽形はゴジラのような顔でした。
時代によって違うものですね。
筆者が和良町の小さな白山神社で衝撃を受け、ここに来るきっかけになった狛犬は、あばら骨むき出しの飢えたようなオオカミ型だったのです。
白山信仰の本拠地といって、オオカミ型とは限りませんでしたけれども。
和良町の白山神社の狛犬はかなり特殊だったのかもしれません。
鹿倉白山神社のオオカミ型狛犬が凄い+和良周辺の白山神社巡り でご覧ください
拝殿で行われる例祭
1月6日 「六日祭り」
「長滝の延年」という舞が舞われます。
これは神事の後に国家安泰・五穀豊穣を祈願して行なわれる、厳かな舞だそうです。
途中で拝殿の天井に吊るされた5つの花笠の花を、新年の福を求める参拝者たちが奪い合う「花奪い」が始まり、にぎやかな祭りになるのだとか。
国の重要無形文化財に指定されています。
5月5日 「でででん祭り」
「浦安の舞」が舞われ、白山三社のご神体をそれぞれの神輿に載せて、太鼓を鳴らして御幸されます。
その音から通称でででん祭りと言います。
7月9日 白鳥の拝殿踊り
白鳥町のいくつかの神社で神事の後に拝殿踊りが開催され、それぞれ集落ごとに歌詞や振付が違うのだそう。
長滝白山神社の拝殿踊りは、天井から吊るされた廻灯籠の下で丸く輪になって踊るものです。
ご祭神は三馬場で微妙に異なる
神仏分離で渡り廊下が撤廃され、今は直接本殿を拝むことができます。
とはいえ、いらっしゃるのは瑞垣の向こうですけれど。
中央に大御前社(御前峰)、向かって左に越南智社(大汝峰)、右に別山社(別山)。
白山を構成している3つの山のご神体を祀っています。
先に書いたでででん祭りの神輿は3台で、この3社のご神体をそれぞれに載せています。
ところで長滝白山神社のご祭神は菊理媛命・伊弉諾尊・伊弉冉尊です。
3山と3神で間違えやすいのですが、大御前社に菊理媛命、他の社に伊弉諾尊・伊弉冉尊、ではないんですよ。
大御前社に、菊理媛命・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3神ともいらっしゃいます。
長滝白山神社所蔵の「白山曼荼羅」に、白山の神々が描かれています。
(神社の説明に曼荼羅を持ち出すのも、神仏習合のなせるワザ)
説明文によると御前峰には十一面観音、神としては白山妙理大権現(伊弉冉尊)で、女性形です。
大汝峰には阿弥陀如来、神としては大己貴尊(大国主尊)で、男性形。
別山には聖観音、神としては別山大行事で、男性形です。
どこにも菊理媛命、伊弉諾尊が出て来ないのは?
白山文化博物館の学芸員の方に伺ったところ、「表には出ず伊弉冉尊の向こうに隠れている」という言い方をされました。
白山妙理大権現は美濃馬場では菊理媛命・伊弉諾尊・伊弉冉尊に当たるということになります。
では別山大行事とは誰のことなのか。
実は加賀では大山祇命、越前・美濃では天忍穂耳尊とされています。
天忍穂耳尊はあまり聞きなれない名ですよね。
天照大神の子で、天孫降臨の天孫ニニギノミコトの父でもあります。
大国主は地主神、大山祇は山の神だからまあ納得できるとして。
天忍穂耳は、どうやら穂の字を持つ稲穂の神だからではないかと思われます。
白山の神は元々農耕や水の神なので、その関係でしょうね。
ご祭神は三馬場(美濃・加賀・越前)でそれぞれ微妙に違うのです。
菊理媛命を白山比咩大神と同一視するのは、加賀に合わせたところもあるからだそう。
明治の神仏分離の際に修験道にもとづく「白山権現」は廃止され、神様を「整理」しなくてはならなくなったことが大きいとのこと。
別山大行事が加賀と美濃・越前で異なることについて、先程の学芸員の方は「加賀のことはわかりません」とのことでした。
江戸時代に三馬場が白山頂上本社の祭祀権を争い、長い間不仲であったことも関係しているのでしょうか。
現代では他県のことは他県を尊重します、という姿勢だと受け止めました。
そうですね。また不仲になる必要はありません。
その他の神社について
さて、その他の神社としてここからは詳しいことがわからないお社が続きます。
学芸員さんもわからないとおっしゃったため、筆者の推測がたっぷり入りますのでご容赦を。
本殿横にある大将軍社・若宮社
白山三山のお社を両側から挟む格好で鎮座しています。
向かって左が大将軍社、右が若宮社です。
両社とも、江戸時代の絵図に現在と同じ位置で載っています。
後述の児御前社等と形大きさは似ていますが、屋根には千木・鰹木があります。
大将軍とは、節分に今年の恵方は…という時の、方位神の大将軍のことでしょうか。
そうなら大凶神というか、扱いに注意が必要な神様なのです。
何故ここにおられるのかは、わかりません。
若宮社も、普通本社主祭神の子、または本社を勧請したものを言うのですが、長滝白山神社の場合はどうなのか、不明です。
天満宮
菅原道真公を祀ったものですね。
拝殿の横に、拝殿の方を向いて建っています。
この位置は江戸時代には護摩堂か神楽堂があったところだと思われます。
明治時代に廃されて、天満宮が勧請されたように見えます。
児御前社・竈神社
児御前社はちごごぜんしゃと読むのかな。
江戸時代には入峯堂、金剛童子堂の近くにありました。
明治の絵図で今の位置に移っています。
越前の大瀧神社にこの名前を見つけましたが、同じく泰澄の創建らしいこと以外、関係は不明。
竈神社は、台所の竈・囲炉裏などの火の神として祀られたり、邪悪・不浄を嫌い火を防ぐとして鬼門封じに祀られる、修験道の神が祀られていると思われます。
江戸・明治の絵図には「竈堂」がまさしく東北の位置に描かれています。
神明神社・稲荷神社
神明神社は天照大神を主祭神として伊勢神宮内宮を総本社とする神社です。
天照大神が太陽神のため農耕と結びつき、国家鎮護の他に農業神としても信仰を集めました。
今の位置の近くに「御鍬堂」があったので、伊勢と関係のある、農業神らしいお鍬様が一時期いらっしゃったのでしょうか。
神明社は絵図では江戸・明治ともに一の宿あたりに描かれています。
稲荷神社はそもそもは稲を象徴する穀霊神・農業神で、神道のウカノミタマと同一視されます。
稲荷大明神とも言われ、神仏分離の際に神道系と仏教系に分かれたそうです。
銀杏坂のあたりにあった稲荷堂は、仏教系として残ったんですね。
これらのお社は、かつて入峯堂や一の宿の近くなど、境内の外周りにありました。
それらが廃されたので、行者たちが拝んだであろうお社を、今の神社エリアに移し集めたようです。
牛王石(ごおういし)
神社エリアの神明社・稲荷社・参集殿からの石段を降りると、瀧宝殿の横にひっそりと牛王石があります。
白山中宮長瀧寺ができる前からあるとされ、石徹白の白山中居神社の磐境(いわさか)と同じように、大昔の自然信仰に基づく、神の降りる座と言われています。
白山中居神社の磐境ほど大きくはありません。
天から降ってきたという伝説があります。
牛王とは牛の肝に含まれる霊薬のことだそうです。
裏手の駐車場から境内に入る場合は気がつきますが、参道正面から来ると、まわりの木に隠れ1段下がったところにあるので、うっかりすると見落とします。
白山瀧宝殿
白山中宮長瀧寺時代の文化財を収めた施設です。
国重要文化財の木造釈迦如来像や四天王立像、阿弥陀如来像などが保管・展示されています。
白山曼荼羅もここに保管されており、展示物は時々展示替えされるそうです。
近くの道の駅隣りにある白山文化博物館にも文化財が多数展示されていますので、併せて見られると良いと思います。
まとめ―長滝白山神社での衝撃とは
筆者がここを訪れるきっかけが小さな白山神社の狛犬だったため、こちらも神社メインに見るつもりでした。
けれどもいざ来てみたら、建物は分離されていても修験道の歴史の重みは大変なもので、仏とのつながりは断ち切れそうもないと思いました。
神社にこだわらず実際に大きな建物を見て、行者たちがどんなふうに本気で修行に入ったのかをたどると、静かな風景もまた違った風景に見える気がします。
かつては「上り千人、下り千人、ふもと千人」と呼ばれるほどの隆盛ぶりだったとか。
今に数倍する堂宇と全国にネットワークがあり明治まで続いていたこと、加賀・越前のこと、日本中に浸透していったムーブメントの大きさとパワーを、衝撃のほかになんと表現しましょうか。
すごいですねぇ。
長滝白山神社・長瀧寺はそんなことを思わせてくれたところでした。
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