蛍の名所である岐阜県和良町に行ってきました。
奥美濃の、長閑な風景を期待していましたが、行ってびっくり、調べてびっくりでした。
アニメの影響で、飛騨地方に両面宿儺の伝説があることが一躍有名になりましたが、奥美濃地方にはそれに勝るとも劣らない伝説が残っているのです。
おまけに古刹には「鬼の首」まで保存されているのですから、それは驚くじゃありませんか。
両面宿儺とは時代もずれて、この地方を襲った「鬼」とその調伏のための寺社建立の記録が残っています。
有名な藤原北家の藤原師輔や、三十六歌仙の一人藤原高光も出てきて、決して一地方の昔話では終わらないようなお話なんですよ。
現存する念興寺の鬼の首
郡上市役所の和良庁舎や郵便局のある、和良町の中心部に念興寺(ねんこうじ)というお寺があります。
創建は鎌倉時代後期の正安3年(1301年)、天台宗の寺院として建立されました。
ここには平安時代にこの地方を荒らし回った鬼の首(頭蓋骨)が供養され、保管されているのです。
天台宗の総本山は比叡山延暦寺ですが、その延暦寺がまた、鬼と縁の深い所でもありますよね。
念興寺については2代目住職が浄土真宗に帰依し、以後は真宗大谷派となったということです。
見事な骨にちょっと戦慄
訪れたのは2022年6月。
ご住職の説明を伺いながら、鬼の首を拝見しました。
これはまた見事な頭蓋骨。
頭蓋骨なんて普通、レントゲン写真でさえもあまり見る機会がないのを、目の前で見るとちょっと戦慄が走りますね。
なかなか貴重な体験ですよ。南無阿弥陀仏。
鎌倉時代(あるいは元禄時代)からこちらに保管されているとのことです。
( )なのは訳がありますので、後ほど。
側面からも見せていただけましたが、住職のおっしゃるように、普通の人のものより一回り大きいような気もします。
細かく言うと、後頭部ってこんなに大きいのかと思ったのと、頬骨・下顎骨・側頭骨が接合しているあたりにも孔があって、こんな大きな孔が…と、自分の顔を触ってみた次第です。
ツノはもちろん、歯も鬼っぽい。
きれいと言っても良いかもしれません。
このきれいさは印刷物の転写では伝わらないと思うので、和良観光協会さんにお願いしたところ、快く提供いただきました。ありがとうございました。
ちなみに念興寺では、撮影は一切禁止です。
もともと秘蔵とされて、これを出すと天が荒れるという言い伝えがありました。
かつて漫画家の永井豪さんが取材で撮影したところ、異変が頻発したためお寺に納めたら収まった、というお話が残っているそうです。
なので、このブログで見られるのは今だけかもしれませんよ(冷汗)。
一つの鬼の首にまつわる奇譚がいろいろある
実は、出典によって、同じ場所の同じ伝説とは思えないほど何種類かありました。
共通するのは、
①高賀山から瓢ヶ岳にかけて何度か妖魔(鬼)が出た
②平安時代中期、時の天皇の命で藤原高光が退治をした
ということ。
ただその鬼が、大鷲の姿であったり、牛のようであったり、キジであったり、蕪や瓢箪に変身したり、猿・虎・蛇が合体したようなものだったり、年代が異なっていたり、藤原高光が2度退治に来て、その間200年経っていたりと、いろいろ…。
映画ならPart1~Part3か4くらいまでできる感じ。
鬼の首が持って来られた時期も、首が納められている箱の案内板は鎌倉時代なんですが、拝観チケットでは元禄時代となっています。
同じ念興寺の中では、ここは統一して欲しかったですけど。
それというのも、伝承された内容が前述のようにたくさんあり、どうやら江戸時代の創作などとも混ざり合っているからのようなのです。
確かに元禄時代に講談か何かで、高光卿の「さるとらへび」が上演されて、大衆がそれを楽しんだ、ってありそうですもんね。(現代のアニメと同じか)
最後に供養を願うところは「鬼滅」を思い出させていただきました。
念興寺の案内板は法話の形か
こちらの案内板によると、
「養老年間(奈良時代初期)、郡上の高賀山と瓢ヶ岳に鬼が棲み、ふもとの住人を苦しめたので、時の天皇が兵を遣わし鬼を退治した。
天暦年間(平安時代中期)、再び瓢ヶ岳に鬼が棲むようになり多くの被害が出た。
悩んだ住民等はこれを訴え、時の村上天皇が、九条関白藤原師輔の八男、右少将正三位藤原高光卿に鬼退治を命じた。※注 混同あり。師輔は関白にはなっていません。
高光卿は瓢ヶ岳の山麓に居城を構え、多数の兵を率いて討伐に当たったが幾度も所在を眩まされ、数年を費やした。
この上は神仏の加護を仰ぐ他なしとして、瓢ヶ岳・高賀山のふもとの所々に社寺を6社祀ったところ、7日7夜の満願の夜虚空蔵菩薩が夢枕に立ち、明け方に大鷲に化けた鬼を討てとのお告げがあった。
高光卿はその通りにし、みごと鬼を退治した。
その後は鬼も棲むことはなく部落は平和になった。
こうして鎌倉時代に入り、粥川某なる者が和良に鬼の首を持ってきて授けた。」
という伝説です。
粥川某とは高光の子孫の粥川太郎右衛門と言い、鬼の首を携え、ねんごろな供養を願い出て瓢ヶ岳のふもとから和良に移り住んだということです。
現存するふもとの6社は高賀6社と言い、修験者の修行の場となったとのこと。
高賀神社縁起はドラマチック
伝説の始まりがその創建に深くかかわる、高賀神社の縁起を伝える古文書の「高賀宮記録」では、
「霊亀年中(715~717年 奈良時代)、夜な夜な怪しい光が都の上空を飛び交ったため、養老元年(717年)帝から捜索命令が出された。
光が飛び去った東北の方角の山々を探索したが正体がわからず、高賀山に神壇を置き祈祷したところ、妖しい光は出なくなった。
そこで改めて社を建立し、ご神体を刻んで鎮座させたのが、高賀神社の始まり。
その後この山中の北東に牛のような妖魔が棲みつき害をなすので、時の帝に願い出たところ、承平3年(933年 平安時代中期・朱雀天皇の時)に藤原高光によって退治された。
鳴き声は牛に似ており、髪は赤く牛のような角を持ち、赤い口を開き目は金色に光る、背丈3mほどの大鬼であった。
その後も再び妖魔が現れて高光が派遣され、虚空蔵菩薩と神々の加護によって3mほどのキジの形の大鳥の魔物を退治し、天慶9年(946年)太平になった。
天暦元年(947年)高賀6社他を創建した。」
とあります。
プロローグが既に映画みたいで、今後の展開にちょっとワクワク?
鬼の様子やいかにして討ったか、という描写も細かいです。
伝説の後に高賀6社の縁起や以後の歴史が続きます。
藤原高光とは―比叡山延暦寺の神秘とも縁がある
藤原高光は実在の人物で、藤原氏北家九条流の祖である右大臣藤原師輔の8男です。
(師輔の次男兼家からその子道長と九条流が受け継がれ、のちの摂関家嫡流となっていく)
母は醍醐天皇第十皇女、雅子内親王。伊勢神宮の元斎王。
高光9歳の時に昇殿を許され、村上天皇の前で「文選」を暗唱して天皇を感嘆させた。
16歳で従5位下叙爵、19歳左衛門佐、21歳右近衛少将と武官を歴任。
22歳で従5位上昇叙となるも、父の死を契機に同年12月、同母弟の尋禅が師事していた比叡山横川の良源の下で出家。法名如覚。
翌年、延暦寺末寺となっていた大和国多武峰妙楽寺(現・談山神社)に移る。
三十六歌仙の一人。
高賀6社を創建したとされる。
史実では藤原高光は939年生―994年没なので、高賀宮記録の方はいろいろ年が合わず、念興寺の方が年齢的には合います。
師匠の良源(元三大師・角大師)は、師輔の後援を受けて比叡山延暦寺を再建した中興の祖と言われており、有名な法力・霊力の持ち主でもあります。
良源が第18世天台座主、如覚の同母弟の尋禅は第19世天台座主。
高光も、如覚となった後に長兄藤原伊尹の後援を受けて大和国多武峰妙楽寺を再興、発展させていきます。
彼自身も歴史上の有能な重要人物であり、物語のヒーローとして申し分ありません。
奇譚の舞台には高賀山信仰・修験道がある
高賀山・瓢ヶ岳はどちらも標高1,200m前後、比叡山848.3mより高いのかとちょっとびっくり。
2つの山の間は直線距離なら7.3km程です。
修験道は、簡単に言うと山岳信仰と仏教の習合。
厳しい修行を行ない、功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指すものだそうです。
高賀山の場合は古くからある山岳信仰にアマテラス信仰が加わり、仏教が習合した上に密教の要素が加わった、さらに虚空蔵菩薩信仰も、という順序のようです。
「高賀六社めぐり」という苦行が、昭和20年頃まであったそうです。
和良の伝説を大切にしたい
そもそも、骨を持つものがいろいろなものに化ける時、骨はどう変化するんだろうか、細胞の増殖?それとも膨張…などとと想像したりして。
どうか伝説のまま残して欲しいものです。
万が一TVのバラエティ番組等に乗っかって分析なんかすると、ちょっと怖い。
和良にはほかにも、不思議な岩や珍しい狼型の狛犬などが現存し、奇譚好きにはたまらない魅力があるんです。
それらを大切にしたいです。
念興寺を訪れた日の晩、たくさんの蛍を見ました。
鬼の首に蛍って、いかにも平安奇譚にふさわしいではありませんか。
基本情報・アクセス
所在地:郡上市和良町沢897-2
電 話:0575-77-2125 ※鬼の首拝観の場合は要予約
拝観時間:9:00~16:00 (法要等の都合で拝観できない場合もあり)
定休日:火曜日 (行事等の都合で臨時の休日もあり)
駐車場:普通車20台 郡上八幡ICより車で約30分
拝観料:1人250円以上 お志で
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