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【京都】陰陽師安倍晴明を尋ねて―晴明神社・一条戻橋・嵯峨墓所

安倍晴明像
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京都市の堀川今出川交差点の近くに、平安時代の陰陽師・天文博士の安倍晴明を祀った、晴明神社があります。

安倍晴明が亡くなって、わずか2年後の創建とされる晴明神社。

いかに神性が認められていたかの顕れでしょうか。

怪異や怨霊が身近なものであった平安時代らしいですね。

初めて晴明神社を訪れたのは2015年でした。

筆者は勝手にそれらしく古びた神社を想像していたのですが、意外に新しめな境内に一瞬戸惑ったことを覚えています。

よく考えてみると、ここは頻繁に歴史の舞台となった京都の、それも中心部なので、1000年という時代の変遷の影響はまぬがれません。

晴明神社もまた、氏子さんたちや崇敬者の方々により、整備・改修され、復興が成ったのです。

2024年のNHK大河ドラマでは珍しく平安時代が描かれ、安倍晴明が登場しているので、その描かれ方も興味津々なんですよね。

そんなことで昨年2023年に、もう一度晴明神社を訪れてみました。

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清明像

晴明神社本殿に向かって左側に安倍晴明像があります。

夜空を見上げて星を観測し、衣の下で印を結んでいる姿だそうです。

安倍晴明は平安中期の延喜21年(921年)に生まれたとされる、実在の人物ですが、当時の呼び方がわからないため、音読みで「せいめい」と呼ばれることが多いです。

実際には「はるあきら」「はるあき」等の可能性が高いと言われています。

陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されます。

41歳で陰陽師(官職)に任じられ、51歳で天文博士を兼任しました。

朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の6代の天皇の側近として仕えましたが、当時は藤原家の権謀術数渦巻く時代でもありました。

平安時代は日常的に鬼や物の怪、死霊・生霊、怨霊たちと共存しており、国家運営にも占いや陰陽道・天文道は必須。

その中で晴明は花山天皇や一条天皇、藤原道長らの信頼を集め、当時としてはかなり長命の85歳で亡くなりました。

当時の貴族の日記である「小右記」や「御堂関白記」に、晴明がしばしば占いや陰陽道の儀式を行なった様子が記録されています。

ちなみに晴明のライバルとされる蘆屋道満も、晴明との関わり方はともかく、どうやら実在したらしいんですよ。

生没年不詳ですが、道満という名の陰陽師が、藤原道長の兄である道隆の妻の妹、高階光子に召し使われていたという記録があるそうです。

12世紀頃に書かれた「今昔物語」や13世紀の「「宇治拾遺物語」「十訓抄」等には、晴明に関するいくつかの不思議な話が載っています。

若い頃の晴明が師の賀茂忠行の供をした夜、他の者には見えぬ百鬼夜行に遭遇し、牛車内で眠っていた師に告げて危機を回避した話。

貴族たちから人を呪い殺すことができるか問われ、やむなく草の葉をカエルに投げて見せると、カエルはその葉によって圧死し、貴族たちを震え上がらせた話。

藤原道長の飼い犬が主人の外出時に吠えて止めようとするのを晴明が占うと、土の中に呪詛の品が埋められていた話。

晴明の屋敷では、人もいないのに蔀戸が上げ下ろしされ、門が開閉されたりした話。

さらに時代が下り江戸時代頃の「金烏玉兎集きんうぎょくとしゅう(陰陽師の秘伝書と言われる)」「簠簋抄ほきしょう」には、唐に渡って本書を授与され蘆屋道満と争った話や、晴明の母が信太の森のキツネであるとする、葛の葉伝説も載っています。

葛の葉の話は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目になっていきました。

現代になってからも、晴明公は小説やコミックの世界では早くから登場していましたね。

現在、晴明神社の社標の側面には「陰陽博士 安倍晴明公 居館之趾」と刻まれています。

晴明神社の由緒によると、神社の創建は晴明の亡くなった2年後の、寛弘4年(1007年)。

当時の一条天皇が晴明の偉業を讃え、その屋敷跡に神社を設けるよう命ぜられたとのこと。

創建当時の境内は東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りという広大なものだったようです。

下の地図は現代の地図に平安京の地図を重ね合わせた「平安京オーバーレイマップ」を基にさせていただきました。

「平安京オーバーレイマップ」は、立命館大学アート・リサーチセンターと京都市の平安京創生館が作られ地図なんですが、神社の境内の範囲は示されていないので、勝手ながら筆者が古の神社の範囲と晴明邸の跡と言われる場所を、青線と赤の〇で示してみました。

青の四角が古の神社境内の範囲になります。かなりの広さですね。

晴明居館跡
画像をクリックすると拡大できます

これとは別に、晴明邸とされる場所は「今昔物語」に「土御門大路から北、西洞院大路から東」とあり、「大鏡」では「土御門大路と町口小路」などとあり、神社由緒にある晴明邸とのズレが見られます。

土御門大路は現在の京都ブライトンホテル南側の現・上長者町通りなので、下の地図でいえば右下の赤丸の区域。

晴明公の後裔は土御門家を名乗られており、その名字からしても土御門大路に面するこの位置は納得なんですよね。

今ではこちらに晴明邸があったとほぼ特定され、「平安京オーバーレイマップ」でも、点線で囲って(安倍晴明)と記入があります。(右下の円)

どちらが本当の晴明の屋敷かというより、晴明邸は2か所あったのではないかと思います。

地図上で神社の敷地を東西に貫く太く赤いラインは平安京の北限、その左下の茶色の中太線が大内裏の一隅です。

内が本邸、京外の神社の方は別邸ではないでしょうか。

平安時代は一夫多妻の時代ですが、そういう意味ではないのですよ。

この時代の女性は、結婚後も実家に住み続けることが多いからです。

(注:近くに「藤原道綱母一条邸」なるものもあります)

地図の京都ブライトンホテルの北に「藤原兼家 一条てい」とありますが、藤原道長の父兼家は他にも二条院や東三条殿など、いくつかの屋敷を持っていますし、道長にも土御門邸の他に一条邸がありました。

晴明は従四位下の中級貴族なので、彼らほどではないかもしれませんが、別邸を持っていてもおかしくないかも。

もしくは何らかの理由で、晩年近くになって引っ越したか。

平安京北限の赤いラインと交差する中央の白い道筋が堀川通りで、ちょうど交差するところに「一条戻橋」があります。

京内と京外に屋敷を置くことで、晴明は平安京を守っていたのかもしれません。

晴明神社が境界線の上にあることや、内裏から見て北東つまり鬼門にあるのも、偶然ではないように思われます。

晴明神社第一鳥居

さてこちらは晴明神社一の鳥居です。

鳥居の扁額には神社名ではなく五芒星又は晴明桔梗と呼ばれる社紋が掲げられています。

なかなか特異な雰囲気を醸しており、もちろん全国的にも珍しいのだそうですよ。

応仁の乱後の神社の規模は、豊臣秀吉の都改造や度重なる戦火により縮小されていたようで、千利休の屋敷にもなっていたというからには、その頃の神社の敷地はいたわしくも推して知るべしですね。

晴明神社の社名は二の鳥居にありました。

昭和25年に氏子さんたちが中心になり、ようやく念願の堀川通りまで拡張されたとのこと。

なんたって、京の都を守ってきた神社ですものね。

二の鳥居の扁額も2007年に新調された際、安政元年(1854年)に土御門晴雄氏の奉納されたものが再現されました。

清明神社第2鳥居

ご祭神は安倍晴明御霊あべのせいめいのみたま。晴明公自身が神として祀られています。

ご利益は「魔除け」「厄除け」です。

晴明神社本殿
晴明神社拝殿と本殿
稲荷社
末社拝殿と本殿

本殿の右に末社としていつき稲荷社と、合祀された天満社・地主社があります。

斎稲荷社のご祭神は御魂みたまの大神おおかみ、天満社は菅原道真、神主社は地主神です。

宇迦之御魂大神は穀物・食べ物の神で、稲荷神とも言います。キツネは主に神の使いとされていますが、神社によってはキツネ自体を稲荷神として信仰するところもあるようです。

菅原道真は言うまでもない天神様。

地主神は、どんな土地にもいて必ずその地を守る神とされています。

実は明治維新後の神仏分離政策で、修験道・陰陽道は廃止の憂き目にあうことになるのです。

晴明神社はこのピンチに、晴明の母がキツネであったとか、晴明自身が稲荷大権現の生まれ変わりとする伝説を根拠に、稲荷神社として生き延びたそう。

斎の名はこの稲荷社が元々は斎院(鴨神社に使える斎王がおこもりする場所)にあったことからだそう。

少なからぬご縁ですよね。

こちらもぜひお参りして下さい。

晴明神社の例祭は毎年9月の秋分の日ですが、実際には前夜に宵宮祭があり、秋分の日当日が本来の例祭となります。

午前中には儀式や献花・献茶があり、午後には神輿渡御や鼓笛隊、稚児行列など、華やかな祭列が氏子町内を練り歩くそう。

晴明神社で最も重要な例祭で、露店も立ち並び大層賑わうそうです。

一の鳥居をくぐったすぐ左にミニチュアの戻り橋があります。

これは大正11年から平成7年まで実際に使用されていた、戻橋の欄干の親柱を移築して復元したものです。

一条戻橋は元々794年の平安京造営の時に、平安京の北限の位置に架けられました。

名前の由来は延喜18年(918年 晴明の生まれる3年前)、文章博士の三善清行の葬列がこの橋を渡った時、熊野で修行中だった子の浄蔵が馳せ帰って柩にすがって祈ると、父清行が一時蘇生したという伝承からです。

晴明はこの戻橋の下に式神を隠し、用のある時に呼び出していました。

式神とは陰陽師が使う精霊です。

様々な役割を持っていて、呪術的な意味で使われることもありますが、門や蔀戸がひとりでに動いたことからも、家事等の雑用にも使われていたようですよ。

またこの橋を渡る人の占いもしていたそうで、高倉天皇の中宮(後の建礼門院)の出産にあたって母の二位殿が占ってもらった時の様子が「源平盛衰記」に書かれています。

ミニチュアの橋の向こうに、隠れるように立っているのが式神の像です。

オブジェ戻り橋

旧・戻り橋を過ぎ、第二鳥居前の参道の両側に、日月柱と呼ばれる柱が立っています。

石柱はかつて四神門の門柱として使われていたもので、柱の上の日月像は篤志家による奉納です。

南に日、北に月を配し陰陽を表現しています。

日月柱

第二鳥居のすぐ内側に、門柱と五芒星の付いた黒っぽい扉があります。

門柱の上部には四神(東に青龍・南に朱雀・西に白虎・北に玄武)が掲げられ、四神門と名付けられています。

その昔晴明邸では人けがないのに門が開き、閉まったそうですが、それにちなんでこの門も自動で開閉するんですよ。まさしく現代の式神!

24時間は開いていないので、参拝は9:00~17:00の間にどうぞ。

四神門
四神門の五芒星、わかりますか

晴明邸に古から湧き出ていた、洛中名水の一つです。

晴明水と呼ばれ、晴明が霊力で湧き出させたという逸話もあるそうです。

無病息災・諸病平癒のご利益があるとされ、飲むこともできます。

取水口が星型の頂点の一角にあり、毎年立春に神社の神職の方が井の上部を回転させて、その年の恵方に向けておられます。

また、千利休がこの水を茶の湯に利用していたと言われ、豊臣秀吉もその茶を服されたと伝えられています。

清明井
晴明神社境内

境内の北西、末社の前にご神木の楠があります。樹齢は推定約300年。

楠はかつて虫除けの樟脳を作る原料となった木です。虫除け=厄除けかな。

まわりがベンチで囲まれているので、休憩しながら両手を当てて、大樹の力を感じ取って下さい。

晴明厄除け桃

本殿の前に大きな桃の像が置かれています。

古来中国や陰陽道では、桃は厄除け・魔除けの果物とされています。

古事記や日本書紀にも魔物を追い払う話があり、民話の桃太郎もこれに由来するものと言われますね。

神社の方のお話では、この桃に自身の厄を撫でつけて、取り去るのだそう。

撫でてご利益を持ち帰るのではない所にご注目

晴明神社

所在地:京都市上京区堀川通一条上る清明町806-1

電 話:075-441-6760

最寄りバス停:市バス9 一条戻橋・晴明神社前(徒歩1分)

晴明神社から南に約100mの、平安京の北限である現・一条通り、一条戻橋は平安当時と同じ位置に架けられているそうです。

その昔源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が、深夜この橋で美しい女に化けた鬼女に出逢い、腕を切り落とした伝説もある所です。

現代と異なりこの時代の夜は本当に真っ暗で、人家さえもなければ、さぞや得体のしれぬ何かがいそうな感じがしたことでしょうね。

時代が下っても折々に意識され、戦国時代や秀吉の時代には刑場になったりもした様子。

比較的最近まで葬式や嫁入り前の行列はこの橋を通らなかったそうですし、太平洋戦争中は逆に、召集された兵士やその家族が、無事戻ってくるよう願ってこの橋を渡ったそうです。

戻り橋

現在の戻り橋はこんな感じですが、一方通行の標識が何をかいわんや?

河川敷もきれいに整備され気持ちの良い遊歩道になっています。

京都 戻り橋下

橋の下もきれいになっていますね。

式神さんの居心地はどうでしょうか。

橋の向こう側の方が樹木も茂っていて、式神さんにとっては棲みやすそうに思われますが。

一条戻橋 橋下

一条戻橋

所在地:京都市上京区堀川下之町

最寄りバス停:市バス9 一条戻橋・晴明神社前(徒歩2分)

安倍晴明は寛弘2年(1005年)9月26日に亡くなり、嵯峨野の地に葬られたとの事です。

墓所は天龍寺が所管し、塔頭・寿寧院の境内にあったともされますが、その後荒廃したそうです。

1972年に晴明神社、土御門神道(安倍晴明を祖とする土御門家が神道化した)の協力の下、現在の地に神道式に改修・建立され、晴明神社の飛び地境内として管理されることになりました。

嵐電嵯峨駅の近く、住宅街の中です。

晴明墓所

毎年9月26日には、命日にあたり嵯峨墓所祭が執り行われます。

お供えをし祝詞を挙げるだけの簡素なものですが、毎年熱心な晴明ファンが参加されているとの事。

墓所とされる所は、京都の他にも長野県や福井県・岡山県・広島県・鳥取県と、広範囲にわたって伝承があります。

京都市内にも他に3か所ほど伝承地があるのですが、残ったのはここだけだそう。

晴明墓所

安倍晴明嵯峨墓所

所在地:京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町12

最寄り駅:嵐電嵯峨駅 (徒歩3分)

目に見える星々だけでなく、目に見えぬ不思議なものたちをも相手に、平安時代を生きていた安倍晴明。

ゆかりの地やゆかりの寺社は全国に及び、大昔からいかに人々に人気があったか、よくわかりますね。

その多くは後世の陰陽師たちが晴明にあやかろうと信仰したため、全国に晴明塚等が立ち、祀られたものだそうです。

それでも安倍晴明といえばやはり平安京。

今はビルの立ち並ぶ大都市京都の一画に、平安京と古の安倍晴明を偲びながら、ゆかりの地である京都の晴明神社・一条戻橋・嵯峨墓所を訪れて来ました。

いつの世にも気になる存在です。

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