伊勢神宮には別宮・摂社・末社・所管社と、多くの宮社があります。
その中の瀧原宮と瀧原竝宮は、共に皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮として、約40km南西に離れた度会郡大紀町滝原の山間に鎮座しています。
ここは熊野街道が通る、奥伊勢と呼ばれるところです。
伊勢神宮は現在の位置に定まるまでに、各地を転々とされたようですが、ここもその一つとされています。
ということは、瀧原宮・瀧原竝宮は現伊勢神宮よりも古い、ということですね。
なぜこんな山間に?なぜすぐ横に並んだ2宮共に天照大御神を祀っているのか?等々不思議なこと、興味深いことがたくさんあります。
今回はあまりにも謎が多くて、神話ロマンよりも、ちょっぴり歴史的謎解き話となりました。
さて、どんな宮なんでしょうか。
瀧原宮の正確な起源は不明―持統~文武帝と藤原不比等?
瀧原宮の由緒は「倭姫命世記」によると、約2千年前までさかのぼります。
伊勢神宮を現在の地に定めるまでに、第10代崇神天皇の皇女豊鋤入姫命とそれを受け継いだ第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、約90年をかけて、その鎮座の地を求めて巡行された。
そして「大河之瀧原之国」という美しい国があったので宮殿を建てたが、その後大御神の神意により現在の内宮の位置に新宮を建てて移られ、瀧原宮は天照大御神を祀る別宮になったとのこと。
「倭姫命世記」は鎌倉時代に、外宮の神職によって伝承を加味して書かれました。
神宮さんはその成り立ちについて、当然ながらこの説を採っています。
日本書紀の記述に基づいて数えると、倭姫命が伊勢に入ったのが紀元前5年、内宮の鎮座は紀元前4年ということになるんです。
ところが崇神天皇は実在する可能性のある初めての天皇で、考古学的には3世紀~4世紀初めの人なんですね。
日本書紀は西暦720年に完成したもので、律令や日本書紀の編纂に大きくかかわったとされる、重臣の藤原不比等が亡くなった年でもあります。
この頃に相次いで編纂された古事記・日本書紀は、持統天皇から孫である文武天皇への譲位を神格化、正当化して創作したものであるという説もあるんです。
そのため神宮の成り立ちは紀元前ではなく、この頃ではないかとも言われているのです。
他にも有力な皇位継承候補があったにもかかわらず、祖母・母・姉が皇位を死守して孫に渡したほどの涙ぐましい努力⁈
瀧原宮が神宮のひな型であるとするなら、瀧原宮の創建も、同じこの頃なのかもしれません。
それにしても日本書紀に書かれている時点で、千数百年経っていることにはなりますね。
それだけでも十分すごいです。
瀧原宮は奈良時代(710~784年)にできた「伊勢国風土記逸文」では「瀧原神宮」と書かれています。
804年の「皇大神宮儀式帳」に「天照大神遙宮」、927年の「延喜式」に「大神遙宮」、と記されており、この頃には別宮となっていることがわかります。
過去に一度でも天照大神を祀っていた所は元伊勢と呼ばれますが、別宮とされたのは瀧原宮・瀧原竝宮だけです。
重要な宮であったのは、間違いないでしょう。
瀧原宮の場所と丹生鉱山との関係
現代の感覚では何故こんな山の中に…と思いますが、古来日本では自然や自然現象により神の存在を感じ、畏れ、崇拝してきたことを思うと、山中でも不思議ではありません。
そしてこのあたりは、縄文時代からの、水銀の一大産地でした。
瀧原宮のすぐ近くには丹生(水銀=丹を生ずる意)鉱山跡があり、今は、三重県多気郡多気町丹生という地名になっています。
水銀は今でこそ毒性が知られていますが、昔は顔料や化粧品、時には高価な漢方薬として珍重されたそうですよ(!!)。
天照大神の孫である神武天皇の東征は、水銀資源を確保するために、産地を東へと遷ってきた一族の話の投影という説もあるのです。
神話のロマンがなくなってしまってごめんなさい(汗)。
それはともかく、中世以降朝廷や摂関家、伊勢神宮に帰属する人たちが活発に採掘・交易を行なったといいますから、当時この地は栄えており交通も発達していたのではないでしょうか。
経済基盤が確保された後は、一族の精神的基盤である神宮を更に格上げするために、地理的に離した(遷した)とも考えられます。
瀧原宮を見てみよう
紀勢自動車道「大宮大台IC」を下りて、国道42号(熊野街道)に入り、南下します。
左側に道の駅「奥伊勢木つつ木館」と白い鳥居が見えて来ました。
信号を左折すると、そのまま道の駅と広い駐車場の間を突っ切り、鳥居をくぐる道になります。
宮の前には10台分くらいの駐車場がありました。
片側は山、もう片側は道路なので、一見そんなに広い宮域には見えませんが、第一鳥居をくぐり参道に入ると、奥深くまで森が広がっています。
神域は44ha、参道は約600mあり、樹齢数百年を数える杉の木立に囲まれています。
小さな橋を渡ると左手に手水舎もありますが、これは昭和6年(1935年)に造られたもの。
右手に折れると内宮同様、御手洗場があります。
石段を降りると、頓登川の流れがあり、その水の飛びぬけてきれいなことと言ったら!
内宮の五十鈴川も本当にきれいな水ですが、こちらの水はそれ以上だと思いました。
宮川は国交省の「水質が最も良好な河川」で、過去11回も全国1位になっているんです。
その宮川の、支流である大内山川のそのまた支流、本当に山の中の谷川なんですから。
御手洗場から見た景色も素晴らしく、森の中の渓流に光が差し込んで、ちょっと感動ものですよ。
神明造の社殿も厳かで良いのですが、今回私はこの御手洗場に一番惹きつけられました。
祓所の祓戸四神
御手洗場から宿衛屋の裏手を通る石段を上がり、参道に戻ります。
参道の右側にあるのは屋根と柱だけの祓所。神様の御前に向かう前に、神職の方が身を清める所です。
通常、祓所には祓戸四神と呼ばれる、穢れをお祓いして下さる神様がいらっしゃるのですが、それは次の四神のこと。
・瀬織津比売神…諸々の禍事・罪・穢れを川から海へ流す
・速開都比売神…河口や海底で待ち構え、諸々の禍事・罪・穢れを飲み込む
・気吹戸主神…速開都比売神が飲み込んだのを確認して、根の国・底の国に息吹を放つ
・速佐須良比売神…根の国・底の国に持ち込まれた諸々の禍事・罪・穢れをさすらって失う
2番目の速開都比売神を覚えておいて下さいね。
次に見えてくるのは古殿地です。
そして、御船倉と呼ばれる建物をはさんで、いよいよ瀧原宮・瀧原竝宮が見えて来ました。
参拝順序が書いてあります。
一段高く石垣が作ってあり、そこに瀧原宮・瀧原竝宮が並んでいます。
順序に従い、右側の瀧原宮からお参りします。
続いて左に鎮座される竝宮へ。
ちょうど石垣の修繕をされていました。
瀧原宮に上がった玉砂利のところを左に進めば行けるので、参拝はできましたが。
ちなみに左奥に見えているのが御船倉です。
ご神体を入れる御樋代を納める舟形の器=「御船代」を収納する倉とされています。
御船倉は「儀式帳」にもあり、古くから存在する建物なのは確かですが、現在は他の宮社には存在せず、瀧原宮のみにあるものだそうです。
これも謎の一つ。
瀧原竝宮のご祭神は天照坐皇大御神の荒魂
瀧原宮と瀧原竝宮のご祭神がどちらも天照坐皇大御神御魂となっています。
なぜ2宮とも同じ天照大御神を祀っているのでしょうか。
一つには神道の概念では、神の御魂が持つ2面性―荒々しい、災いを起こす魂と、優しく平和的な魂があるとすることが、信仰の源となっているんですね。
同じ神でも別の神に見えるほどの強い個性があるため、分けた方がお祀りしやすいということではないでしょうか。
先に瀧原宮が神宮のひな型かもしれないと書きましたが、これは内宮の正宮に天照大御神の和魂が、荒祭宮に荒魂が祀られている形のひな型とも言われているのです。
竝宮は天照大御神の荒魂と考えられている訳ですね。
倭姫命世記のご祭神の記述の謎
ここでまた新たな疑問が。
神宮では瀧原宮のご祭神は先程の天照坐皇大御神御魂としていますが、倭姫命世記には瀧原宮のご祭神は速秋津日子神、 竝宮は速秋津比売神との記載があるのです。
これはどう解釈したらよいでしょう。
●倭姫命さん、瀧原宮は天照大御神をお祀りしたはずではなかったの?
現内宮に遷られた後にでもこの方々を相殿としてお祀りした?
速秋津日子神、速早秋津比売神とも、イザナギ神・イザナミ神が初めの段階で生んだ神で、いわば天照大御神の兄・姉です。
そして速秋津比売神は、祓所の建物のところで紹介した、水とお祓いに関係している速開都比売神のことです。
●宮社と祓所の両方にいらっしゃるのはアリですか?
瀧原宮・竝宮と祓所が同時にできていたなら、倭姫命世記を書いた外宮の神職も、こんなおかしな話にはしませんよね。
祓所というものは、倭姫命世記の後、つまり鎌倉時代以後にできたのでしょうか?
若宮神社は水戸神の子?怨霊鎮めの神社?
もうひとつ。
瀧原宮の右、つまり東側にはちょっと長い石段があり、上がった先にあるのが「若宮神社」です。
ご祭神は若宮神とあるだけ。
若宮神社というのは、基本的には本宮の主祭神の子を摂社・末社等に祀ることが多いのです。
もし天照大御神の子とすれば、天忍穂耳命になりますが。
神宮では古来不明としていますが、天水分神との伝説があるとも付け加えられています。
ここで倭姫命世記の顔も立てている感じですね。
この神様は先ほどの速秋津日子神・速秋津比売神の子なのです。
瀧原宮・竝宮のご祭神がこの方々で、若宮神が天水分神なら一応つじつまは合います。
それにしても若宮神社は瀧原宮の所管社であり、たとえ親子の関係としても、瀧原宮より高いところにあるのは不思議。
実は若宮にはもう一つの意味があり、非業の死を遂げた怨霊を鎮めるために祀った社を、若宮神社とする例もあるんです。
ただ神宮で、怨霊を祀るとも思えません。まして天照大御神より高い位置に。
なので、怨霊説は却下。
長由介神社・川島神社も詳細不明だが
若宮神社の石段を降りると長由介神社の前に出ます。
ご祭神は長由介神で、瀧原宮の御饌(食事)をつかさどるとされています。
名前も豊受大神の別名に似ていて、つまりはこちらも外宮のひな型?
帰り道には、往きに見られなかった忌火屋殿(調理場)もありますし。
この神社は元は他の宮社と同じように南を向いていたのですが、明治7年(1874年)に西向きに変更されました。
理由はこちらも不明とされています。
一説に南面の起源は中国の「天子南面す」という考え方の反映とされており、明治といえば江戸時代頃から始まった復古神道の思想が思い出されますが。
でも西に変えられたのはこの社だけですものね。
その際にそれまでなかった玉垣と玉垣ご門を設置し、社殿のなかった川島神社を同座させています。
川島神社のご祭神は川島神ですが、こちらもどんな神様かわかっていません。
ひょっとすると、瀧原宮ができる前に元々このあたりにいらっしゃった、頓登川の神なのかもしれないなぁと、個人的には思います。
1218年頃に描かれたと推定されている「瀧原宮宮域之図」に、川島社と名前だけあり、社殿は描かれていなかったそうです。
多岐原神社
せっかく瀧原宮に参拝したので、同じ読みの多岐原神社にも寄ってみました。
瀧原宮から約6km北に離れています。
国道42号を北上し、途中県道747号に入ります。
集落を離れたり、また奥に入り込んだりして、ナビではこのあたりだけど…と見回しても、それらしい鳥居などは見当たりません。
小さな案内板を見つけ、やっと車1台通れるか通れないかという、細い下り坂を下ることにしました。
写真では広い道に見えますけど、違うんです。
少し下ってみましたが、私の腕では途中にかかる小さな橋?を踏み外しそうで、心配になってそこから引き返すことに。
バックで坂を戻るのもヒヤヒヤです。
上の道の少し広いところに停めさせてもらい、改めて歩いて向かいます。
しばらく下ると、車が転回できるスペースがありました。
慣れた方ならここまで来られるんですね。
そこにあった畑の方のスペースのような気もします。
さてその先は森の中。道路の舗装もなくなりました。
行く手には本当の谷、倒木もかなり見られる崖です。
左側が少し開けているようだったので見ると、そこに多岐原神社がありました。
まあ、なんて奥まった森の中、谷の底にあるんでしょうか。
夕方以降ちょっと暗くなったら、絶対来られそうもありません。
鳥居も社も賽銭箱も古びたままではありますが、地面には玉砂利が敷いてあって、雑草も生えていません。
清らかに清掃してあり、整備されているので清々しく参拝できました。
なぜこんな谷底に、隠れるように作ったのでしょう。
倭姫命世記によると、滝原の地に着いた倭姫命の一行が急流の宮川を渡れずに困っていた所、真奈胡神が出迎えて渡してくれたため、倭姫命はお礼にその場所に真奈胡神を祀る御瀬社を定めたとのこと。
これが現在の内宮摂社、多岐原神社です。
最近まで熊野街道の「三瀬の渡し」があったそうです。
なるほどあの崖の下は宮川でしたか。
三瀬の渡しに行く道は、人があまり通らなくなったせいか、私などにはちょっと進むのを躊躇させる道だったので遠慮しました。
帰り道は国道42号に戻り、宮川を渡るので、川の様子が少しわかります。
両岸はすごい崖の谷川で、川原というものがほとんどありません。
きっと多岐原神社のあたりが、わずかにある、比較的なだらかなところだったのだと思います。
そこに三瀬の渡しが作られ、安全を多岐原神社に祈ったのでしょうね。
ここはもう伊勢より熊野
道の駅「木つつ木館」と「奥伊勢おおだい」にも寄ってみました。
どちらも木製品や熊野古道らしい品でいっぱいです。
ここは奥伊勢とは言うものの、伊勢より熊野の雰囲気が圧倒的に強いです。
「赤福」や「へんば餅」など、内宮・外宮でおなじみのものは全く置いてありませんので、ご注意。
代わりに堂々たる一枚板や木製品がたくさん。
私は珍しい桑の実や、クレソンが袋にぎっしり詰められたのを買って帰りました。
桑の実はジャムにすると美味しいんですよ。
さて、謎を解くと言いながら、むしろ疑問は増える一方。
大半が謎のままでした。スミマセン。
実は神話ロマンも好きなんです。
良かったら、スピ的カテゴリーの方も読んで下さい。
あれやこれや、神社巡りはやめられません。
コメント